訪問者数

 

アクセスカウンター


 

たけのやま瓦版          No  0092

 

 

(至急確認)

カボチャの種を希望された佐藤M子様へ。

 

丸山さんには、佐藤様の情報を報告済です。

 

直接丸山さんに携帯電話して下さい。

  090-5580-6392  です。

 

 

 

 

 深山レッド(赤カボチャ)の種の配布

 

昨年の瓦版でもお知らせしていましたカボチャの種の配布は、4月18日から受け取り可能になりました。

希望者は、丸山さんに連絡の上、受け取って下さい。

種の芽出し作業は4月下旬から5月上旬迄に開始して下さい。

会員以外の方は、最下段のメッセージフォームから申し込み下さい。

受け取り情報など、返信します。

深山レッドの詳しい情報は、”深山レッド” をクリックして確認して下さい。

 

 

たけのやま瓦版          No  0091

 

 

4月の市民登山 33名の参加者

 

 

 4月27日の市民登山。

幸い、天候にも恵まれ、全員気持ちよく新緑のたけのやまを堪能し心地よい汗を流しました。

そして、頂上では、昼食の後、皆で合唱を行いました。

更に、下山途中、天然記念動物の『カモシカ』に遭遇。

昨年は、クマに遭遇したため、今年は出来る限り集団行動をしていたので、全員が普段滅多に見れない『カモシカ』を直接目で見ることが出来ました。

たけのやまの自然て、凄いなあー。

『カモシカ』の写真、慌てて、ピンボケになってしまいました。

申し訳ありません。

 




たけのやま瓦版                           号外編

 

 

      我が家の納戸を整理していたら

      こんな面白い資料を発見しました

 

漢字や文章等から推測すると、恐らく、明治時代から大正時代に書かれたものと思います。

その資料中に、当時の庶民間に言い伝えられている ”迷信” が紹介されています。

その中から「これはおもろい!」と思われる ”迷信” をいくつか紹介します。

 

1鼻の上や穴に腫物が出来れば必ず親戚の人に子供が出来る

1飛ぶ鳥の糞が人の眉に掛かると其の人に幸福がある

1男子が蚯蚓に小便すれば、陰茎腫れる

1陰茎腫れたときは蚯蚓を探し洗ふてやれば療る

1白蛇の夢を見た時は朝早く其の場に行けば銭が落つて居る

1子供の夜泣きするときは瓢箪と鎌を吊し置けばなほる

 

如何ですか? 現代でも、こんな迷信残っていますでしょうか?


丈ヶ山(たけのやま)

どこにでも有りそうな572mの里山。

これが、”丈ヶ山” です。

私達は先祖代々親しみを込めて

『たけのやま』と呼んでいます。

そして、麓から眺めるだけでは勿体ないので

私達は登山道を開きました。

登山口の標高は、 450m位。

山頂までの標高差、僅か120m。

ゆっくり歩いても、40分程で登ることができます。

山頂からは、妙高山他を始め、頚城平野、日本海。

更に運が良ければ、佐渡島まで眺望できます。

『たけのやまファンクラブ』は年4回の 

会員と市民参加の『丈ヶ山登山』を行っています。


丈ヶ山は特異な山です

国土地理院日本シームレス地質図によれば、

丈ヶ山の山体は、

後期中新世ー鮮新世(N3)の

珪長質火山岩類(非アルカリ貫入岩)

と表示されています。

約700万年から170万年前に

地下のマグマの一部が地上付近に貫入し、

浅いところで冷えて固まった安山岩です。

この後に、大きな褶曲活動が起き、

海底堆積物が隆起し関田山脈が形成されました。

従って、関田山脈の中に有って、

この丈ヶ山だけが独立峰であり特異な山なのです。

山寺薬師の参道沿いでは

貫入岩を直接手で触り観察することが出来ます。

『延命清水』は貫入岩が亀裂し

そこに雨水が侵入し湧き出したものです。

丈ヶ山の北側の山肌には、1メートル以上の大岩が

折り重なるように点在しています。

偶然だと思われますが

岩と岩の間に人間が入れる程の空間が出来ました。 

この空間が ”聖の窟” なのです。


アクセス

お車のナビで、「延命清水、山寺薬師」を目的地としてお出かけ下さい。

日吉神社社務所前に無料駐車場(山寺薬師駐車場)が有ります。

 

 

 

 


市民登山案内

 

 

ファンクラブ会員が、同行し、途中の延命清水・山寺薬師・三猿像・猿供養寺跡などを説明します。

上越市外からの参加者も歓迎します。

午前11時に『山寺薬師駐車場』に集合して下さい。

事前の申し込みは不要です。雨天決行です。

雨具・昼食・飲み水・おやつ・登山靴等、登山できる服装と持ち物でご参加下さい。

トイレは山寺薬師境内に有ります。

14時頃に、山寺薬師駐車場に戻り、解散となります。

お問い合わせは ☎090-6944-6136 丈ヶ山ファンクラブ 島田正美まで

 

 

☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣

たけのやまあれこれおもろいでえ 🙈🙉🙊

☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣☣

たけのやまファンクラブでは、丈ヶ山の魅力を市民に感じ取って貰うため、年4回の【たけのやま市民登山】を実施しています。

子供連れ、ご夫婦、お友達同士の参加など、毎回、 30名近くが山頂を目指します。

 



たけのやまファンクラブに入会して、人生をより楽しく健康に過ごしませんか?

 



たけのやまファンクラブは、丈ヶ山周辺の歴史の掘り起こしや登山道の整備、市民登山のガイドなど様々な事業を行っています。



丈ヶ山山頂に、可愛い可愛いお地蔵様を建立いたしました。

「身の丈に合った生活をして、みんなで長生きしようよ」という意味で【身の丈地蔵】と名付けました。

ファンクラブが、お地蔵様建立に至った経緯等紹介します。



たけのやま山麓の西側に点在する集落群を昔は寺野郷と言いました。

昭和5年頃に、この寺野郷の郷土誌を編纂することになったそうです。

そして、郷土誌の編纂を、当時の寺野小学校を首席で卒業した今井貞四朗氏に委託しました。

寺野郷出身のこの秀才さん、凄いですよ~!

ここには、神代の時代から、昭和初年頃までの村の歴史が詳しく纏められています。

勿論、寺野郷の里山『たけのやま』の歴史も載っています。

寺野郷の昔を知るうえで大変貴重な資料が「寺野郷土誌稿」なのです。



【寺野郷土誌稿】を徹底的に解読してみました。

それこそ、新しい発見、発見の連続でした。

例えば・・・

 

『丈ヶ山』の丈という字は、『丈』では有りませんでした。丈の右肩に、『`』が付いていました。

 

村の言い伝えや、古典書に『乙宝寺の僧の所にサルが来て山で死んだ。その猿を供養したのが猿供養寺と言うお寺だ』とあるので、ふたつのお寺の建設された順番は、当然『乙宝寺の後に、猿供養寺が建った』と思っていましたが、何と、順番は猿供養寺が先に建設されたのです。つまり、猿は乙宝寺の僧の所に来たのではなかったのです。

 

【寺野郷土誌稿】を読んで、改めて「この地域は本当に凄いところだったんだなー」って感激しました。

 

 



丈ヶ山の山頂に「謎の四角錐体の盛土体」が有ります。

ファンクラブの会員が、10年程前、山頂を生い茂っている笹藪を刈り取った結果、忽然とこの謎の盛土体が現れました。

この盛土体を発見した会員は、「これは、昔々、ここで僧侶が修業した【戒壇】に違いない」と大騒ぎになり、市に依頼して発掘作業まで行いました。

しかし、期待した遺構は出ませんでした。

数年後、盛土の中心には、丈ヶ山の標高572mを示す三等水準点が有りましたので、国土地理院にこの盛土体のことについて質問したところ、予想だにしなかった意外な事実が判明しました。



猿供養寺集落の昔からの言い伝えでは、【昔々、乙宝寺にお経を聞きに来た二匹の猿が、秋になって、山で亡くなり、その猿を供養して建てたのが「猿供養寺」というお寺だ】そうです。

しかし、この猿が死んだ様子などは、伝わっていません。

ところが、京の都で編集された四つの古典書には、この猿の『死に様』の様子が詳細に載っています。

更に、四つの古典書の編集された年代が大きく異なり、内容も少しづつ異なっているのにもかかわらず、何故か、この猿の『死に様』だけは殆ど同じ表現なのです。

そして・・・どう考えてみても、変死即ち変死体なのです。

つまり、『ふたつとも頭を穴の中に入れて死んでいた』・・・と。



四つの古典書に書かれた『越後国の猿の話』を紹介します。

 

<経緯>

西暦736年頃?『ふたりのサル』がたけのやまの山中で死ぬ

 

西暦1040~44年頃大日本国法華経験記成立

西暦1110~24頃今昔物語集成立

西暦1254年頃古今著聞集成立

西暦1278~1346年元亨釈書成立



大国主命(おおくにぬしのみこと)の息子、建御名方命(たてみなかたのみこと)が丈ヶ山に来たという神話が【寺野郷土誌稿】に記載されています。

建御名方命が丈ヶ山の麓に来て、夜星という悪人を滅ぼそうとしたのですが、うまくいかず、父親の大国主命に助けを乞うのです。

すると、大国主命は丈ヶ山の山頂に「白丈神」として顕れます。これに勢いを得た建御名方命は、夜星を滅ぼします。

「丈ヶ山」の「丈」はこの「白丈神」の名前が由来だそうです。

ファンクラブの歴史好きの3名が、この神話の事実性(こんな神話が果たして本当に有ったのかどうか?)について鋭く熱く議論しました。

ファンクラブ謎解きの会の謎解きシリーズ、第一作目です。

 



旧板倉町は「恵信尼の里」と言われていますよね。

板倉在住の何人かのご婦人に聞いてみました。

「貴女のお里は何処ですか?」と。

全ての御婦人は、自分の生まれた場所、或いは、幼少の頃育った場所を言いました。

そこで、「板倉は恵信尼の里と言われていますが、恵信尼様が生まれ育った場所は何処ですか?」と聞いてみました。

答えは「板倉に決まってるじゃない。あなたって、本当に失礼な人ね!」

これが答えでした。

でもねえ、『ゑしんの里記念館』の館内展示説明は、なんと『晩年を過ごした場所である』つまり、『板倉生まれでは有りません』と説明されているのですよ。

「ええっ???。そんなあ・・・・・・???」

でも、ご心配無用です。

私達が、『恵信尼様の板倉生まれ』を証明して差し上げます。

ファンクラブ謎解きの会の謎解きシリーズ、第二作目です。



ファンクラブ謎解きの会の謎解きシリーズ、第三作目です。

寺野郷の村人たちの言い伝えである

 

『山寺薬師三尊像は、もとは、五尊像だった』

 

についての真偽を議論します。

故松野純孝先生も、故井上鋭夫教授もこのことについて言及しています。

何々!「それで、謎解きの会の結論はどうなったのか?」って・・・?

それじゃ、貴方に、こっそりお教えします。

「言い伝えは・・・正しかった・・・でも、間違っていた・・・???」

「なんや、それっ! 全然意味不明だわ! 正しい日本語使えんのかい!」

申し訳有りません・・・・・・一言で言うと、こうなるのです。なにせ、私達、歴史には超ド素人集団なんですから。

行き当たりばったりの、常識を超越した、右往左往の謎解きが開始します。

兎に角、おもろいから、読んでみてよ!

 

 



当ホームページでは、猿供養寺集落に有る ”人柱供養堂” や、先祖からの言い伝え ”人柱伝説” に関する情報を殆ど紹介してきませんでした。

 

今から数年前の出来事になります。

県外からふたりの地すべり研究者が、猿供養寺集落に有る ”人柱供養堂” を訪れました。

そして、研究レポートを ”Noto" 上で発表しました。

そのレポートの後半部分に、『現地を車で走っている時、白い何かを見た』と書いて有りました。

そのレポートを、偶然見つけた私は、彼らが見たという『白い何か?』について、メールを送り何回か交信した結果、それこそ妙な展開になって・・・。

 

「これに対する眞田様の返信は、驚愕と言いますか、恐怖と言いますか、私と伊藤氏は冗談抜きで震えあがりました(原文のまま)」

  

現実に起きた、ちょっと、いやいや、凄くミステリアスな、お話です・・・。

 



  "驚きのおいしさと大きなおへそ"

 

【深山(みやま)レッド】を実験栽培していただける仲間を募集しています。

4月18日より、カボチャの種を配布します。

ファンクラブ会員(入会費無料、年会費1000円)には必要粒数を配布します。

非会員の方には協賛費ワンコイン(5粒500円)とします。

上久々野の丸山さんから、手渡し可能な方に限ります。

連絡先(0255-78-2404)



読者とファンクラブを繋ぐメッセージフォームです。

何でもお問い合わせください。

誹謗中傷はお断りします。

内容は、公開することは有りません。



【番外編】

新潟県内には、今尚伝説と捉えられている真実の歴史が他にも存在します。

その筆頭格に、『後白河天皇の子、以仁王が新潟県内に逃げて来て住んでいた』というのが有ります。

この言い伝えは、東蒲原郡上川、三条市下田、長岡市小国、魚沼市湯之谷等県内多くの地域に伝わっています。勿論、以仁王は京の都から逃げて来たので、県外の途中の逃亡ルート上にも以仁王の痕跡が多く残っています。

にもかかわらず、『以仁王は、宇治平等院の戦いで平清盛軍に殺された』とするのが日本の正史になっています。

さて、『以仁王が新潟県内に来た』という言い伝えは嘘か誠か? 

徹底的に調べてみました。

 

興味のある方、是非私のもう一方のホームページ『尾瀬三郎物語と以仁王逃亡説』を訪ねて見て下さい。