寺野郷土誌稿について思う

寺野郷の昔々のことを記した『寺野郷土誌稿』を私が手にし読んだのは、令和2年になってからです。読んでみて、越後上越地方の山奥の小さな集落群にこのような素晴らしい古い歴史が眠り続けて来たことを始めて知り、本当に感銘を受けました。

 

しかし、『寺野郷土誌稿』という資料の存在そのものを私が初めて認識したのは、随分と昔のことです。

お話が、長くなることを承知の上で、思い出話として聞いてください。

 

平成15年に新潟市から新井市内(今の妙高市)に転勤となりました。

4月初めに、板倉町長さんが新刊された町史を携えて来られ「昨年度未に板倉町史が出来上がったので是非読んでくれませんか」と町史3冊を置いていかれました。

その町史を単身アパートに持ち帰り、読み始めて、私が特に興味を持ったのが『ふたりのさるの物語』『人柱伝説』でした。

猿供養寺集落の言い伝えに、『2匹の猿が山の中で死んだ。その猿を供養するために猿供養寺というお寺を建てた』と有り、この言い伝えは、『四つの有名な古典書にも載っている』と書いてありました。

早速、上越市立図書館で四つの古典書(大日本国法華経験記・今昔物語集・古今著聞集・元亨釈書)を借りてきて、猿供養寺集落に伝わる猿の言い伝えと四つの古典書をそれぞれ比べてみると、一つだけ明らかな相違点に気が付きました。

それは、集落の言い伝えでは、”猿が来て、猿が死んで、猿を供養した” ところまでで終わりです。

一方、古典書全てには、続きが有り、”40年後の話” が追加されているのです。

それよりも、もっともっと奇妙なことに気が付きました。

それは、四つの古典書に共通に描かれている『猿の死んだ様子がどう考えても変死体』なのです。

四つの古典書は不思議なことにいずれも同じ様な死様で書かれていますが、一方の集落の言い伝えだけは、凄く簡潔でした。

もう一方の『人柱伝説』ですが、この言い伝えについても全く奇妙な点に気付きました。

というのは、地すべりの大災害から村人を救うために旅のお坊様は自ら人柱になったのに、不思議なことに『このお坊様のお名前が一切伝わっていない』 のです。

言い伝えでは単に『旅のお坊様』だけと伝えています。

インターネットで、全国の人柱伝説を調べてみました。

すると、人柱がひとりの場合では、人柱となった方の名前が伝わっていないケースはひとつもありませんでした。

全て人柱になった方の名前が有りました。

人柱の骨が発見されたその時間に、実際にそれを目撃したという地元猿供養寺の御老人からも直接お話を伺いました。

お年は当時、70歳位だったでしょうか。

板倉町史集落編の猿供養寺集落の編集を担当された区長さんです。

 

「小学校の1年か2年生の頃です。人柱の人骨が出たと村中大騒ぎになりました。それで、皆んなで見に行きました。大人達が穴から甕(かめ)を取り出し、穴の中を覗いていました。その内、夕方になり辺りは暗くなってきました。大人達は、『お前らはもう家に帰れ!』と言われ、家に帰りました。後で聞くと、甕(かめ)の中には人間の骨が入っていて、甕(かめ)を引き上げた時は、骨は座禅を組んだようになっていたのですが、直ぐに、崩れてしまったと大人達から聞きました」

 

と子供の頃の遠い記憶を私にお話しして下さいました。

その時、乙宝寺のお話も出て、

 

「新潟の北の方に乙宝寺というお寺が有ります。昔は、村の衆がそこに行くと大変な御馳走が振る舞われたと子供の頃私の爺様から聞いたのですが、今は、そんなことは無くなってしまいました」

 

と乙宝寺が、寺野郷の山寺三千坊から北の方に移転したことをお聞きしたのです。

成程、猿供養寺集落の言い伝えが、『猿が死に、供養した』 迄で、四つの古典書が『それから40年後に都から偉い役人が赴任して来て、その時のお坊様を探すが、既に寺野郷の乙宝寺には姿がなく、三島の郡(こほり)の乙宝寺に行ってようやくお坊様に出会えた』 というストーリーの意味がスッキリと理解できたのでした。

 

そして

 

1.猿は他殺か自殺かそれとも事故死か?

2.お坊様の名前が伝わっていないのは何故か?

3.乙宝寺移転説が廃れたのは何故か?

 

これらの疑問を何とか解けないだろうかと思い、私は推理小説仕立てで、1年目に『猿供養寺物語と人柱伝説』、2年目に『猿供養寺物語と乙(宝)寺』を発表しました。(この本は妙高市図書館、上越市図書館に置いてあります。また、地すべり資料館にて1冊500円で販売しています。販売収益はファンクラブの活動資金となります)

 

しかし、寺野郷に伝わる乙宝寺移転説というより寺野郷起源説に対して真っ向から反対する方がSNS上に現れました。

住所も名前も職業も明らかになっていません。

ペンネームは『佐奈』と言います。

『細故訪古』で検索すると佐奈さんのホームページが出てきます。

お話が長くなってしまい恐縮ですが、この『佐奈』さんのホームページ『細故訪古』の中の『追補1:板倉・猿供養寺の伝説について』の中に、『寺野郷土誌稿』が紹介されていたのです。

そこでは、私はもとより、寺野郷の方々にとっても、とても受け入れがたい驚くべき論理が展開されております。

私は、てっきり『寺野郷土誌稿』にそのように記述されているのだろうとばかり思ってしまい、『寺野郷土誌稿』を読もうとする気持ちをすっかり失ってしまったのです。

※私の名前も『サナ(通称)』ですので、同一人物と間違えられたことが有ります。全くの別人です。

 

その数年後、さして目的もなく新潟県立図書館に立ち寄り、何を思ったのか、図書検索機で『寺野郷土誌稿』を検索したのが『寺野郷土誌稿』との出会いの切っ掛けです。

『寺野郷土誌稿』は一般公開の本棚には置いて無く、出入り禁止の奥の資料室に有り、貸し出しも禁止となっていました。

係の人から『寺野郷土誌稿』を資料室から出してきてもらい、図書館内でページを開いたのですが、取っ付き難い文字が目に入ってきました。

そこで、コピーをお願いすることとし(すべてのページコピーは禁止)、2日間に分けて、本文の主要なヶ所のみコピーしました。

家に持ち帰り、苦難の末纏めたのが『寺野郷土誌稿を読む』なのです。

それまで、何となくモヤモヤしていたことがこの『寺野郷土誌稿』を読んで初めて納得できたことが余りにも多く有りました。

その後、板倉区役所に行った折、『寺野郷土誌稿』を2Fの資料室で見つけ、表紙から最終ページまですべてをコピーさせていただきました。

 

 

それでは本題に移ります。

 

『寺野郷土誌稿』の最初のページ、「巻頭之辞」は寺野教育會長豊岡重治氏です。

日付は昭和9年10月10日です。

「緒言」には、編者(今井貞四朗)は昭和9年盛夏と記しています。

一般的には、「巻頭之辞」や「緒言」は、一番最後に書きますので、『寺野郷土誌稿』の発刊は昭和9年末か昭和10年でしょう。

「巻頭之辞」の寺野教育會長豊岡重治氏によると「昭和5年に郷土誌を編纂することになり、当時の寺野校首席訓導の今井貞四朗氏に委託した」と述べています。

 

 

編集後記に、今井貞四朗氏は興味深いことを記しています。

 

3)蒲原乙寶寺に対し、當山寺は甲寶寺と説くものあれど如何にや。(原文のまま)

 

猿供養寺集落の区長さんの言葉を思い出しました。

『昔は、最初乙宝寺はここに有って、それを蒲原の乙宝寺も認めていたのに・・・』

それなら、うちは『甲寶寺』と呼ぼうやと。

この一文から、村の衆の無念さや、やるせなさが私にもよく理解できます。

でも、地元寺野校の一番の秀才さんは流石ですね。

『いくら何でも、そこまで言っちゃお終いよ』とやんわりと村人を諭すように宥めました。

秀才今井氏は「華園寺が丈ヶ山の麓から移転したら、当然、乙宝(寶)寺は甲寺(管長寺)になったのですよ。宝(寶)寺は絶対に甲宝(寶)寺なんかでは有りませんよ」という訳です。

 

 

『寺野郷土誌稿』に書かれている文字は、ガリ版刷文字です。

もの凄く丁寧に一文字一文字書いています。

誤字など絶対に有りえない程の几帳面で丁寧な書体です。

私が小学校の頃、学校から渡されるプリントは先生お手製のガリ版刷りでした。

私も、おぼろげではあるが、やすり板の上にパラフィン紙を置き、鉄筆でゴリゴリと文字を書き、もし字を間違えると、蝋の液体みたいなもので誤字場所を塗りその上から正しい字を書いた記憶が有ります。

しかし、修正は旨く書けなくてパラフィン紙が破れてしまうことが多かったように思います。

その後は、謄写版器とインクの付いたローラーを使って、一枚一枚わら半紙で刷り、何回か刷るにつれてインクが滲み文字が読めなくなります。

ガリ版刷りで本を作るということは、これはもう、大変な作業だったに違いありません。

100部も刷れなかったのではないでしょうか。

そんなことを思い出しながら読ませていただきました。

 

板倉区役所に行き、『寺野郷土誌稿』のことに詳しい方からお話を聞きました。

最初の『寺野郷土誌稿』は、東山寺にお住みの〇〇さん所有のものだけだそうです。

昭和40年頃、『寺野郷土誌稿』が現存しているのを、見つけました。

これは貴重なものだと、当時の歴史愛好家達はコピー印刷して寺野郷の全世帯に配布したのです。

現在、現存しているのはこの1冊だけです。

今、県内の複数の図書館が所有しているのは全て昭和40年ごろにコピー印刷したものです。

 

ファンクラブの寺野郷の方々に「家にコピー本の『寺野郷土誌稿』が有りますか?」と問うてみましたが、誰も持っていませんでした。

それよりも『寺野郷土誌稿』の存在すら知らない方が全員でした。(眞田記)