山寺薬師三尊像は 五尊像だったのか?

【はじめに】

丈の山の麓集落には、『山寺薬師の三尊像は、もとは、五尊像だったのだ』という言い伝えが有ります。

3体の如来様の内、一番偉い筈の ”お釈迦様” が真ん中にいないことからこの言い伝えが生まれたと思っていますが、村人達には、この言い伝えを信ずる人が結構大勢います。

その人達は『お釈迦様の隣にもう二体の如来様が有ったら、お釈迦様は真ん中に鎮座することなります。だから、もとは、五体なんだよ』と説明します・・・。

成程、この単純明快な説明理由には、確かに、説得力が有りますよねえ。

しかも、井上鋭夫教授や松野純孝先生までも『山寺薬師三尊像は、もとは、五尊像だった』と著作に書いていますので、尚更です。

でもねえ。

素朴に何かが引っかかるのですよ。

例えば、”如来様の大きさ・・・” です。

よーく、三体の如来様を観察してみると、何となく真ん中の薬師如来様が一番大きく見えるのですよ。

つまり、言い伝えのように、もしも、もとは五体有ったとしたら、真ん中に鎮座する筈の釈迦如来様が小さく見えることになるのです。

何故?何故?何故?

こんな素朴な疑問から、私達ファンクラブの謎解きグループ3人に、新たに島田さんを加えて、例の如く、右往左往のド素人集団の謎解き会が始まります。

 

「この謎解きストーリー、めっちゃおもろいでえ」

(それで謎解きの結論はどうなっなったの?)

「えっ、結論を言うの?」

(教えてよ?)

「それじゃ、言いましょう。村人達の言い伝えは正しかった・・・」

(えっ。つまんねえなあ)

「でも、言い伝えは間違っていた・・・」

(何じゃそれ! さっぱり分からんわ)

「兎に角、読んでみてよ。おもろいから」

   ※( )は、読者からの声でした。

 

第一章 謎解きの会に新しい仲間加わる

 

司会眞田(以下眞田)「おや、おや、もう集まってるの。約束の時間に遅れてしまって申し訳ない」

会員昭雄(以下昭雄)「そんなことないよ。私達もさっき来たばかりなんだ。ねえ、久美子さん」

会員久美子(以下久美子)「こんにちわ。眞田さん。早速やろうよ。もう、ワクワクしてるんだから」

昭雄「ここに着いたのは私が一番早かったんだけど、久美子さんは、入るなり、"あら、昭雄兼実殿、お早うございます"   って言うんだよ」

久美子「うふっ、昭雄さんからの返事は ”久美子恵信尼殿、御無沙汰しております” だったよ」

眞田「それって、恵信尼ミステリーの時の雰囲気そのままじゃなあい?」

昭雄「そうなんだよ。もう私達二人は、あの時のノリを・・・引きずったまま・・・ここに来ています・・・」

久美子「そうそう」

昭雄「で、眞田さん、今回の謎解きテーマは、山寺薬師の如来様なんだって? メールに『如来様は最初は五体有った』と書いてあったけれど、今日の謎解きの対象はあの山寺薬師堂の如来様なの?」

久美子「あの如来様は、私の御先祖、あっ、間違い、恵信尼様のご子孫の三善讃阿様が御寄進なさったという、あれなの?」

眞田「ああ、そうだよ、久美子恵信尼の末裔が寄進したあの如来像様が今日の謎解きテーマだよ」

昭雄「眞田さん、三体の如来様が五体有ったって。それって本当のお話なの?」

久美子「あらっ、私ね、会員になる前、初めて市民登山に参加した時・・・あの時の登山案内人はたしか島田さんだったと思うけど・・・。島田さんはね、薬師堂で『如来様は五体有った』と説明してたわよ」

眞田「そうなんだよ。島田さんは『如来様は五体有った』と市民登山の参加者に毎回説明しているんだ」

久美子「じゃ~、今回の謎解きのテーマは、ずばり、『山寺薬師の如来像は五体か三体か?』・・・なんだよね?」

昭雄「五か三かか・・・?  恵信尼ミステリーの時は、凄く奥が深かったけど、今日は割と簡単に答えが見つかりそうだよね」

眞田「まあ、昭雄さんの期待通り、簡単に結論が出ればいいんだけどもねえ・・・」

久美子「あらっ、又、面倒なお話になっちゃうの?」

眞田「今のところ、私自身も、よく分からないんだよ。それで、もう一人新しい参加者をお誘いした・・・」

昭雄「誰?」

眞田「ああ、ここにいる三人だけじゃ欠席裁判になっちゃう」

久美子「欠席裁判・・・? あらっ、分かったわ。それって、島田さんでしょ?」

眞田「当ったり~。そう。間もなく、到着する筈なんだけど・・・」

と言った時、玄関に人影が映った。

会員島田(以下島田)「遅くなりました。もう始めているの?」

久美子「さあ、さあ。早く入って。今から始めるところだから」

島田「改めて、ご挨拶いたします。新参者ですがよろしくお願い致します」

久美子「あらっ、人柄が変わっちゃったの? いつもの島田さんらしくなあい」

昭雄「島田さん。そんなに畏まっていたら、謎解きなんてできないよ」

島田「分かった。分かった。いつもの普段の島田に戻ります・・・」

久美子「うふふっ・・・」

 

このようにして、ファンクラブとしては、三回目の謎解きゲームが始まったのである。

    (参考)※1回目 たけのやまの神話

        ※2回目 恵信尼ミステリー

 

 

 

第二章 島田五体説 vs 眞田三体説

 

久美子「ねえ、ねえ。眞田さん。眞田さんは、三体説なんでしょ?」

眞田「ああ、初めてあの三尊像に出会った時の印象が物凄く強烈だったからねえ。実は他にもう二体如来様がいたなんて、そんな想像なんて出来ないさ」

昭雄「うん、そうだよね。私も如来様は始めから三体だと思っているよ」

久美子「じゃ~、島田さんは、何故五体有ったと市民に説明してるの?」

島田「もう何十年も前の子供の頃の記憶だけど、誰かから、五体有ったと聞いたんじゃないかなあ。お釈迦様が一番偉いのに、真ん中じゃなくて、向かって右端に居られるのは、その右にあと二体有ったからだという説明に妙に納得しちゃったんだよなあ」

久美子「それって、誰から聞いたの?」

島田「親父か爺様だったかなあ・・・。小学校の先生からだったかなあ・・・。友達からだったかも・・・。申し訳ない。随分前のことで記憶が定かでない」

久美子「え~、そんな子供の頃からなの? 50年間以上、島田さんは『如来様は五体有った』と思い込んでいたんだねえ。じゃ~、眞田さんはどうして三体だと思ったの? 三体なら島田さんの言う通り、一番偉いお釈迦様は当然真ん中にいるべきでしょ。でも、真ん中は、薬師如来様なんだよ」

眞田「お釈迦様が真ん中にいないのは、ここは、山寺薬師様だからさ。お釈迦様は御遠慮なされた・・・」

久美子「まあ、お釈迦様が遠慮なんてするかしら? 変な理屈ね」

昭雄「いやいや、その眞田説に私は充分納得してるんだけども・・・。なんたって、あそこは山寺薬師だもの」

久美子「ダメダメ。眞田さん、もう少し、筋の通った理論的な説明が出来ませんでしょうかねえ・・・」

眞田「相も変わらず、手厳しいねえ。久美子さんは・・・」

久美子「あらっ、御免なさい。私の生まれつきの性分ですので・・・」

眞田「う~ん。あの三尊像の写真を撮って、何度も何度も眺めてみた・・・んだ」

久美子「それで・・・」

眞田「その内、偶然、あることに気づいてしまった・・・」

久美子「あることって?」

眞田「うん、真ん中の薬師様がお釈迦様よりほんの少しだけ大きいように見えたんだ・・・よ。それでね、何で一番偉いお釈迦様より薬師様の方が大きいのだろうか? って、考えだした・・・。もしかしたら、目の錯覚だろうか? それにね、三体の如来様の背後にある木、これは、”光背” というらしいんだけど、薬師如来様の光背が私には一番立派に見える。台座、これは ”蓮台” というらしいんだけども、これも薬師如来様の蓮台の方が大きい気がする。そこで、考えたんだよ。もしも、島田さんが言うように、如来様が五体有って、お釈迦様が最初から五体の真ん中に座っていたとしたら、大きい蓮台と光背を持つ如来様は、当然、お釈迦様でなきゃならない・・・。しかし、五体の真ん中でない薬師如来様の方がお釈迦様より少し大きくて台座も光背も少し大きい。ということは、島田さんの言う如来五体説はもしかしたら成立しないんじゃないかな・・・と」

久美子「???。言ってる意味がよく分からないわ・・・」

眞田「つまりね、五体の如来様を並べたら、中央じゃない薬師如来様の方が大きいのは何とも不自然じゃないかと・・・。と思ったんだけども・・・。でも・・・。この説明、あまり自信がないんだけども・・・ね」

 

 

第三章 島田三体説 vs 眞田五体説

 

島田「久美子さん。実はね。眞田さんから、ひと月ほど前、今と同じ説明を受けたんだよ。それで、薬師堂で実物を観察したら、薬師如来様が一番立派に見えてきたので ”成程そうか” って、納得しちゃった。だから今では、私は ”如来像は最初から三体しかなかった” って思っているんだけど・・・」 

久美子「まあ、島田さんは五体説から三体説に変更しちゃったの? 昭雄さん、今の眞田さんの説明を聞いて現時点でどちらの説を支持しますか?」

昭雄「私は、最初からずう~と三体説さ」

久美子「それじゃ~、ここには五体説を支持する人はひとりもいなくなっちゃった・・・わ」

昭雄「そういう久美子さん、貴女は? どちら説なの?」

久美子「私は・・・。今までのふたりの説明を聞いても判定不能・・・。だから中立かな・・・」

昭雄「ちょっと待ってよ。久美子さん以外、全員三体説じゃ謎解きに進めないじゃないの」

久美子「そうだよね。眞田さん。どうしてくれるの? 眞田さんが今回の謎解きの招集者なのよ。責任取ってよ」

眞田「イヤー。早速、面白い展開になってきたよね。こうでなくっちゃ、いいぞ、いいぞ・・・」

久美子「まあ、白々しい」

眞田「実をいうと・・・ね、久美子さん。私は、五体説に変えようかなって思っているんだよ。誠に申し訳ないのだが・・・」

久美子「まあ、信じられないわ。島田さんだけじゃなく眞田さんも、自説をこうも簡単にコロッと変えるなんて。最初から筋を通しているのは昭雄さんだけだよ?」

昭雄「もう一人、久美子さん。貴女も、中立を通してる。偉い!」

久美子「偉い訳無いよ。昭雄さんのおだてに易々と乗らないわよ」

昭雄「分かり申した。久美子恵信尼は、極々ありふれた慎重派だった・・・だけ・・・」

 

 

 

第四章 薬師如来と釈迦如来のすり替り説

 

久美子「うふふっ。眞田五体説の理由は後で誠心誠意ご説明願うとして・・・よ。ここまでの議論で、ひとつ気になることが有るんだけど・・・なあ」

眞田「なあに?」

久美子「私もこの三如来の写真を見てみると、真ん中の薬師如来様が一番立派に見えてしょうがないんだけど・・・」

眞田「久美子さんにもそう見える? そうなんだよ。多分、真ん中の薬師如来様が一番大きいのは間違いないと思うよ・・・」

久美子「それでね。写真の真ん中の大きい如来様は、実は、薬師如来様ではなく釈迦如来様だったら、今までの議論どうなるのかなあ? って、ふと、思ったの」

島田「えっ、えっ。もう一度言ってみて。言ってる意味が全然理解できません・・・?」

久美子「はい。向かって右の如来様が釈迦如来だと島田さんと眞田さんが言い張るから、色々な解釈が出来ちゃうんでしょ。いっそ、真ん中の如来様が釈迦如来だったら、全ての疑問が一気に解けるんじゃ・・・ないのかなあ・・・? 私の言ってる意味分かるよね? 島田さん?」

島田「ううん。今いち・・・分からない・・・」

久美子「うん、もう! い~いっ。向かって左の阿弥陀如来様は両方の手の平を膝に乗せているでしょ」

三人、写真を確認して、同時に頷く。

久美子「真ん中と右の如来様の手をよ~く見て!」

三人、三尊像の写真に身を乗り出して注視する。

久美子「同じポーズだと気付かなあい?」

三人共、久美子さんが何を言おうとしているの、まだ分からない。

久美子「薬師様とお釈迦様とが、すり替わっていたとしても、誰にも分からない。どお?」

三人共、まだ ”すり替え” の意味が分からない。

久美子「例えばよ。三善讃阿、讃阿役は島田さんにするよ。島田讃阿は京で一番の名工である仏師を選定し、五体の如来像の制作を依頼した。アッ、別に三体でもいいんだけど・・・。仏師役は昭雄さんよ。仏師昭雄はこれまで何体もの如来様を制作してきた。さて、仏師昭雄殿。貴方は、どうやって如来様を彫り始めますか?」

昭雄「えっ。私が仏師役? ”恵信尼ミステリー” を思い出すなあ。うれしいなあ・・・。で、どうやってって彫るかって?」

久美子「同時、並行して複数の如来様の制作を始めますか? 今は、五体か三体かは考えないで・・・。同時制作か、それとも、一体ずつ制作するか?」

昭雄「ああ、そういう意味ね。それは・・・、うん、一体ずつ制作するさ。一体造るのにあの大きさだもの、少なくとも1年以上はかかると思うよ。同時並行作業はないよなあ・・・」

久美子「私もその仏師昭雄殿のご意見に賛成だわ。眞田さんは?」

眞田「私も、同時並行に彫り始めることなんてないと思うよ。普通は・・・」

久美子「じゃ~、次の質問よ。だとしたら、仏師昭雄殿なら、どの如来様から制作を始めますか?」

昭雄「う~ん。私なら、一番偉いお釈迦様だろうな。お釈迦様に悪いもの・・・」

久美子「そうだよね。私もそう思う。皆さん仏師昭雄殿の意見に賛成しますか?」

眞田「うん、多分、そうなるよね」

島田「そうだろうね」

久美子「常識のある仏師昭雄殿は一番偉い釈迦如来を先に制作し、制作が終わったら、次の如来様、多分薬師如来様、を制作する・・・。ここまではいいよね。さて、次の質問よ。この質問は重要だよ。いいっ? その時、釈迦如来より薬師如来を大きくすると思いますか? さあ、仏師昭雄殿、お答えになって!」

昭雄「う~ん。薬師如来は、釈迦如来より少し小さくする・・・かな。釈迦如来が一番偉いからね。多分、これが一般常識」

久美子「そうだよね。でも・・・ね、山寺薬師にある如来様は小さい筈の薬師如来の方がちょっと大きい。何故かしら? 次は島田讃阿殿に質問よ。仏師昭雄殿は釈迦如来と薬師如来を彫り終えました。仏師昭雄殿は釈迦如来が一番偉いため少しばかり大きく造りました。手のポーズはどちらも同じくしました。違うのは大きさだけです。そして、仏師昭雄殿は『どちらを薬師如来にするかを依頼主の島田讃阿殿に委ねた』とする。さあ、どうする、島田讃阿殿。お答えになって?」

島田「むむっ」

久美子「どうした、島田讃阿殿。何を迷っている」

島田「仏師昭雄殿、貴殿が彫った薬師如来はどちらか、答えよ!」

昭雄「私は、島田讃阿殿のご依頼により先ずお釈迦様と薬師様をお造り申した。して、どちらをどうするかは貴方様の胸一つ!」

島田「うむ! この如来様は、山寺薬師様に寄進いたす。従って大きい方を薬師如来とする。どうじゃ、それで構わぬか。仏師昭雄殿」

昭雄「ははあ~。異存はござりませぬ。それでよろしいかと・・・」

久美子「うっふっふっふっ・・・。如何かな? 御一同・・・」

島田「ややっ! 見事、”如来すり替え” が実現した・・・わ」

眞田「スゲー、発想力。想像を超えた直感。やっぱり、この謎解きに久美子さんは欠かせないわ」

久美子「どうかしら? 如来様すり替えの真相?」

 

 久美子さんの勝ち誇ったような言葉に、三人、唖然・・・。

しばらくたって、昭雄さんから、思いもよらない反撃の言葉が発せられる。

昭雄「ダメだね。まんまと久美子さんの悪だくみに乗るところだったよ・・・」

久美子「まあ。悪だくみだなんて。酷い言い方」

昭雄「私は、京の都で仏師として修業を重ねた。そこに三善讃阿殿が訪ねてきた。越後の国の薬師が峰の麓に如来様を奉納したい。大きな如来様を彫ってくれまいかと・・・」

島田「当然、如来様の大きさは、現在現存している今の如来様の大きさを言ったんだよね。とんでもない大きさだよ」

昭雄「して、島田讃阿殿。条件は? 何如来を彫る? 何体彫る? 何処で彫る?」

島田「成程。依頼主の条件がまず先に存在するんだ。久美子さんのストーリーのような彫り終わってから、どちらを薬師如来にするかなんて展開は、有り得ないんだよね」

眞田「そうか。如来すり替え説は、最初から成立しないって訳か。久美子さん、今の昭雄さんと島田さんの説明、如何ですか?」

久美子「うふっ、はい。確かに、すり替えのストーリー展開に少し無理があったようです。認めます。それとね、自分で説明していて気づいたんだけど・・・」

昭雄「なあに?」

久美子「さっきは、『お釈迦様と薬師様と同じポーズ』だと言ったでしょ。でもね、よくよく見ると同じじゃない」

昭雄「あれっ、そうなの?」

久美子「薬師如来様は、左手に薬壺(やっこ)を持っている。薬師如来様だからね。お釈迦様の方は、何も持っていない。よ~く左手を見ると、薬師如来様の手の平に程よく薬壺が収まるようになっている。一方、釈迦如来様の左手は、少し、前方に傾いている。お釈迦様の左手に薬壺が乗ると、薬壺が落っこちる。だから、私のすり替え説は、絶対になし! 皆さんを悩ませるようなことを言ってしまって誠に申し訳ありませんでした」

 

 

第五章 最初に彫られた如来様は・・・釈迦如来 or 薬師如来?

 

眞田「分かりました。久美子さんが自らすり替え説を否定しましたので、次の議論に進んでもいいですか?」

昭雄「オーケーです。で、次は何を議論するの?」

眞田「先程、昭雄仏師さんが言ったことです」

昭雄「私、何か言ったっけ?」

眞田「重要な視点を言いましたよ。『何如来を彫る? 何体彫る? 何処で彫る?』 と。ひとつずつ議論します。如来様はどこの場所で彫ったと思いますか? まず最初の議論点です」

島田「どこの場所か? というのは、京の都の仏師の作業場か? それとも、現地、つまり越後の山寺薬師周辺でか? でいいの?」

眞田「そうです。どちらの可能性が高いと思いますか? 久美子さんからどうぞ?」

久美子「京の都であれ程の大きな如来様を彫るということは、完成した後、遠く越後まで運ばなきゃなんないよね。安全確実に運べるかしら?」

昭雄「あれだけの大きさの仏像は、一本の材木から彫りだすのは難しいよ。頭部、胴体、手、足と別々にして制作し、組み立てる筈だよ」

島田「ということは・・・バラバラにすれば、運搬の問題はなしか・・・」

昭雄「でも、現地での組み立てが必要となるよ。で・・・結局は、越後に仏師が行くことになる」

久美子「ということは、単純に、”越後にきて現地で如来様を彫る” じゃなあい?」

島田「越後で彫るとしたら、作業場、寝泊まりするところ、食事等、はどうする?」

久美子「そんなの決まってるわよ。費用は全部、三善家が拠出する。当然だわ。一切仏師に不自由なぞさせません」

昭雄「そうか。そこまで徹底しないとあれほどの如来様は作れないのか。成程なあ。金かかるよなあ~」

眞田「次。仏師はひとり? それとも複数人?」

昭雄「あれほどの大きな如来様を彫る名工は、そうざらにいない。従って、仏師はひとり。でも、お手伝いとして弟子が数人いる筈」

島田「仏師は彫ることにのみ専念か・・・。切れ止んだノミを研いだり、木屑の片づけ。粗削りもあるかな? 相当腕の良い弟子が数人はいる筈」

久美子「三善讃阿殿はもの凄い出費を覚悟しなきゃ」

眞田「これはもう、大豪族でなきゃ、出来ないな・・・。次、一体製作するのにどれくらいの日数がかかると思う?」

久美子「一体製作するのに1年はかかるんじゃなあい?」

昭雄「私は、1年以上だと思うよ」

久美子「もし2年だとして、五体も作ったら10年だよ。讃阿様、そんなに待てるかしら?」

島田「そうだよね。10年も仏師の拘束は出来ないよね」

久美子「ねえ、この仏師って何歳位だと思う」

昭雄「何故、仏師の年齢を問題にするの? 久美子さん」

久美子「思い付きで申し訳ないんだけど・・・。当時の、平均寿命ってどれ位かなあって。修業して名工にまでなったのが四十歳だとすると、五体完成までだと五十歳。当時の平均寿命、五十歳まで有ったのかな? って思ったのよ」

眞田「確かに。久美子さんの疑問点は理解できるよ。仮に一体1年で完成させても五年も仏師を拘束することになるんだものね」

久美子「仏師昭雄殿!」

昭雄「ははあっ。何でござるか」

久美子「昔の平均寿命をネットで検索してみて。お願い!」

昭雄「分かり申した。しばらくの猶予を・・・。ややっ、これは驚き桃の木山椒の木。眞田殿、何時代かな?」

眞田「鎌倉時代、室町時代、辺り」

昭雄「鎌倉時代は24歳、室町時代は15歳前後だ」

久美子「まあ。それじゃ、仏師が名工になる前に死んじゃうわ」

昭雄「昔は凄い早死にだったんだねえ。驚いた」

島田「生まれた子供が、はやり病でどんどん死んじゃうんじゃないかな? 大人になればそれほど病気で死ななくなる・・・」

眞田「久美子さん。面白いことに気づいたね。生き続けるということは、大昔は大変なことだったんだよ」

久美子「讃阿殿が仏師に如来様を彫るというのを依頼するとしても、仏師の命がいつ途絶えるか分からないとしたら・・・。まず一体だけを依頼する。完成し、まだ気力も体力も仏師に残っていたら、次の如来を依頼する・・・。こうならざるを得ないのかなあ?」

島田「そうだよねえ。室町時代は15歳か・・・。大変な時代だったんだねえ」

昭雄「それはそうと、話を元に戻そうよ。どこまで議論が進んでいたっけ?」

眞田「三善讃阿は仏師を越後の国に連れてきて、薬師が峰の麓の作業場で制作した。薬師が峰とはたけのやまだよ」

昭雄「アッ、思い出した。仏師に如来様制作を依頼する時、複数依頼するかどうかで仏師の年齢が議論になった」

島田「そもそも、その頃の平均寿命は? って調べたら、室町時代で15歳だった」

久美子「そうそう。そんなに早く死んじゃうのであれば、必然的に一体づつしか頼めない」

眞田「皆さんも同意見だよね。じゃ~、一体だけを依頼するとしたら、何如来?」

昭雄「複数依頼して初めに何如来かじゃなくて、今度は、一体だけ依頼するとしたら、一番偉い釈迦如来か、それともここは薬師だから、薬師如来かの二者択一だね」

島田「私は、やはり、薬師如来かな・・・。もしかしたら、途中で仏師が死んで、一体だけしか残らないとしたら、やっぱり、薬師如来だよね。なんたってここは山寺薬師だもの」

久美子「御免、御免。又,水を刺すようなことを言うけども、お釈迦様が一番偉いから、薬師様かお釈迦様かと言うんでしょ」

島田「そうだよ。久美子さん、何か? ご不満でも?」

久美子「お釈迦様が一番偉いって誰が決めたのかしら? 眞田さんも言ったわね。お釈迦様が一番偉いのに、薬師様が真ん中なのはここが山寺薬師だからって」

眞田「確かに、そう言ったよ。お釈迦様が一番偉いって」

昭雄「久美子さん、何を言おうとしてるの? 説明してみて?」

久美子「私は、どの如来様が偉いかは関係なく、単純に、ここは薬師様だから薬師如来をまず制作依頼したでいいのではないかと・・・」

島田「どちらでも良いような気がするけど・・・」

久美子「島田讃阿殿!」

島田「ははあっ!」

久美子「奈良の都、東大寺の大仏様。日本の木造大仏で最大の仏像。奈良の大仏さんは一体だけよ。あの大仏様はお釈迦様・・・? なの。島田さん、お釈迦様は一番偉いんでしょ。じゃ~、奈良の大仏さんはお釈迦様なんでしょ? 島田さん?」

島田「そんなの知らないよ。眞田さん。分かる?」

眞田「分かりません」

島田「大仏様は、大仏で、如来様ではありません・・・じゃなあい?」

久美子「あらっ、そうかしら? 大仏様は、わたしの記憶では ”盧遮那仏” だったと思う。修学旅行の時、覚えたのよ」

島田「何? その、”ルシャナブツ” って?」

久美子「知らないわ。でも、お釈迦様ではないと思うのよ」

昭雄「眞田さん、凄く基本的なこと聞くけど・・・」

眞田「なあに?」

昭雄「そもそも、如来様ってなあに?」

眞田「えっ。う~ん。改めて聞かれると。う~ん。久美子さん、島田さん分かりますか?」

久美子「???」

島田「???」

久美子「如来様でネット検索したら分かるんじゃない。ちょっと待って」

早速スマホをいじっている。

久美子「有った。有った。”悟りを開いた人” と説明してるわよ」

昭雄「人なの?」

久美子「人みたいね。お釈迦様も元は人なんだね。人間も悟りを開けば如来になれると書いてある。悟りを開く直前の人は菩薩なんだって」

昭雄「へ~」

久美子「日本でよく知られた如来様は、釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来と書いてあります。あれっ、大日如来は昆盧遮那如来だって」

眞田「奈良の大仏さんは、大日如来だったというの?」

久美子「そうみたいね。他も調べてみるわ」

眞田「休憩にしようか。コーヒータイム」

島田「いいね。私が煎れるよ」

 

島田「久美子さん、ブラックでいいの?」

久美子「有難う。へ~、”悟り” には、52段階の悟りが有るんだって。一番上の ”悟り” を開いた人は、ひとりだけ。それが、お釈迦様だって。お釈迦様の位が一番上だっていうのは間違いなさそうね」

久美子さんはスマホを見ながら何かしらぶつぶつ言っている。

久美子「成程、如来様って、こういうことだったのね・・・。知らなかったなあ・・・」

島田「何か発見したの?」

久美子「日本国内には、いろんな如来様が有るのよね。そして、如来様は宗派によって決まるんだって。”御本尊” ていうらしいよ」

島田「”御本尊”? 例えば?」

久美子「阿弥陀如来はね。天台宗・浄土宗・浄土真宗・真宗大谷派の御本尊だってよ」

島田「じゃ~。釈迦如来は?」

久美子「曹洞宗と臨済宗。大日如来は真言宗だって」

この会話を聞いていた昭雄さん

昭雄「久美子さん。薬師如来は? 何宗?」

久美子「薬師如来・・・? ちょっとまって。 え~と・・・。ここだ! ”西方極楽浄土の阿弥陀如来に対して、薬師如来は当方浄瑠璃界(いわゆる現生)の教主とされています” って。それから、薬師如来は天台宗の御本尊でもあるって」

昭雄「天台宗なの。薬師如来は現生の、今生きている人の病気を治すんだね」

久美子「ここの山寺はもともと、薬師が峰の麓に仏教の聖地として開かれた。そもそも宗派が成立する前から薬師が峰だった。ここに如来様を置くとしたらそりゃ、薬師如来様に決まっている・・・」

島田「お釈迦様が一番偉いのに真ん中にいないのは何故?・・・なんてへ理屈は必要なかったんだ。素直に、山寺薬師だから薬師如来でいいんだね。登山案内の時の説明方法変えなきゃならないよね」

眞田「私も次から変えよっと・・・」

久美子「それがいいと思うよ。ところで、三体か五体かなんですが・・・。今までの議論で、何が分かったのかしら?」

島田「単純に、ここは薬師様。だから真ん中は薬師如来様。その横には、釈迦如来と阿弥陀如来がいる。五体説だと、その又両隣に二体の如来様がいた。ということになる」

眞田「三体説は単に三体がいただけ・・・」

昭雄「つまり、三体か五体かの議論には何の解決策にもなっていない」

久美子「でも、それでいいんじゃなあい。おかげで、如来様の事、随分理解できたわよ。では、次よ。心変わりの眞田さん。改めて質問いたします。五体説に変更した理由は何かしら?」

島田「また三体説に変えましたなんて言わないよね」

 

 

第六章 眞田五体説とは?

 

眞田「ああ、言わないよ。五体説を否定する根拠が今のところないもの」

久美子「まあ。最初は三体説だったのに・・・。よく言うわね」

島田「その眞田五体説とやら、ご説明願えませんでしょうかねえ?」

眞田「いいですよ。実はね。これなんだよ」

眞田は三人の前に、一冊の本を差し出した。

久美子「あらっ、”中世の越後三善氏” じゃないの?」

昭雄「この本の中に、五体説が書いて有るの?」

眞田「ああ、そうですよ」

久美子「この本を書いた著者の三島義教さんて、根拠の有ることしか書かないって、確か眞田さん以前そんなこと言ってたわね」

眞田「ああ、そうだよ。三島義教さんは絶対に嘘は書かない。だから、私は五体説に変えざるを得なくなったっていうのが変更の理由なんだ」

久美子「ねえねえ。どこに書いてあるの?」

眞田「久美子さん。50ページを開いてごらん。そこの、太字部分を声を出して読んでみて」

久美子「ここね。えーと。読むわよ。”板倉土豪三善讃阿が盛大の昔偲び寄進した平和祈願の五体仏像” ええっ! 本当だ! 間違いなく五体と書いてある」

久美子さんは、昭雄さんと島田さんにその部分を指で指した。

昭雄「本当だ!」

島田「で、どのような説明になっているの?」

久美子「眞田さん、概略を説明願えませんか?」

眞田「ああ。まず、今現存している三体の仏像の胎内に、三善讃阿の署名が有ると書いてある。正確に言うと ”「土豪領主三善讃阿」の署名のある仏像(釈迦、阿弥陀、薬師の三如来)が板倉郷の山寺の薬師堂に立願、寄進されていることである” と書かれている」

島田「仏像の胎内に三善讃阿という名前が書いてあったというのは聞いたことが有るよ」

眞田「さらに、仏師の名前については、 ”この仏像には、いずれも京都の六条仏所の大仏師筑後法眼の制作者の名前が記され・・・” と書いてあるよ」

島田「う~ん、阿弥陀如来には、何も書かれていないと聞いたんだけどもなあ・・・。記憶違いなのかなあ・・・」

眞田「寄進の時期は、釈迦如来は明徳五年、薬師如来は応永二年、西暦でいうと、釈迦如来は1394年、薬師如来は翌年の1395年だそうだ。室町時代辺りだよ」

久美子「えっ、再確認するけど、釈迦如来が薬師如来よりも先に完成したというの?」

眞田「ああ、それが、真実みたいだよ。我々の検討結果と違うけど・・・」

久美子「もう一度確認するけど・・・。三善讃阿の名前は、三体に書いて有った。仏師の名前も三体に書いて有った。しかし、寄進の時期については、阿弥陀様には墨文字はなかった・・・。寄進の時期の順番は、釈迦如来、次いで薬師如来でいいのよね」

眞田「三島さんの記述では、そのように書いてあるよ。間違いないよ」

久美子「続けて・・・」

眞田「この解体調査は昭和6年に実施された。これは、奈良博物館長が行った。この時に、如来胎内の墨書きが発見され ”板倉三善氏” が越後板倉にいたことが初めて立証された。昭和34年になると、神戸大学教授により、仏像の解体修理がなされ、像内の頭部と背部の墨書きの詳細を報告した。昭和38年に、新潟県教育委員会主催の「頸南学術総合調査」の一環に取り上げられ・・・。これが、三島義教さんの言う根拠資料みたいだよ。いい、そのまま読むよ」

久美子「私に読ませて。ここね。美術班の報告となっているわよ。”山寺、猿供養寺には、もとは大日如来、宝生如来を合わせて、計五体、五仏が祀られていた。二体は、乙宝寺に運ばれ、その後焼亡して現存していない。・・・共に、六条仏所の筑後法眼なる仏師によって造られたことが知られる。室町時代、応永前後頃の傾向をうかがうに足る一資料である” ・・・」

島田「やはり、五体有ったのが正しいのかなあ?」

久美子「まだあるわよ。新潟大学の井上鋭夫教授は、歴史班で ”山寺は丈ヶ山を信仰の対象とした。この山の周辺にはかっていわゆる山寺三千坊が成立し、山寺はその本坊を云うのであろう。付近に多くの宗教遺跡の地名がある。山寺薬師は、現在は真言宗だが、元は、大日、宝照、弥陀、釈迦、薬師の五仏を祀った天台宗だったらしい” と報告している」

昭雄「井上教授って、本朝法華経験記で、”越後国々寺僧” を ”越後国乙寺僧” と読むべきだと強く主張したあの有名な教授でしょ」

眞田「そうだね」

昭雄「益々、五体説が有力になってきた感じだね」

眞田「ところで、久美子さん、実際読んでみてどうだった?」

久美子「そうね。美術班の報告。”もとは・・・五仏・・・” のところ。この ”もとは” という文字が気にかかっちゃった」

島田「 ”もとは” ?」

久美子「三善讃阿が寄進したという仏像ではないような感じなのよ。寄進した時よりも前に五仏が祀られていたとも読めるのよね」

眞田「成程」

久美子「それにね。”・・・共に” の前に付いている ”・・・” は何だろう? これは、多分、中略の意味なんじゃないかしら。とすれば、”・・・共に” の次の文は、三善讃阿が寄進した仏像だということになるわ」

眞田「読みようによっては、三善讃阿が寄進したのは五体の仏像だとは必ずしも言い切っていないということなんだね」

久美子「井上教授の文についても、同じなのよ。ここにも ”元は” という文字の後で、五仏を祀った天台宗だったらしいと言っているのよねえ。ここでも、三善讃阿が五仏を寄進したとは言い切っていないんだよねえ」

眞田「つまり、久美子さんは、この文からは、決定的な証拠とは言えないというんだね」

久美子「うん、そしてね、三島さんは、続けて ”仏像五体の寄進となれば、それなりに、かなりに大掛かりの諸行事が必要で、仏師の選定、制作準備と期間、寄進式典の次第等の都合を考えれば、一地方の土豪の立願にはかなりの諸準備が必要な大事業と思われる” となっているから、三島義教さんだけは、三善讃阿が寄進したのは五仏だと確信しているようなんです」

眞田「昭雄さん、島田さん、今の久美子さんの意見どう思いますか?」

昭雄「何とも言えないけれども・・・。今ここで、結論を出すのはまだ早いという感じかな?」

島田「そんな気もするよね」

眞田「他に気にかかったことなあい? 島田さん?」

島田「はい。如来様の順番かな。井上鋭夫教授の五仏の名前の順番なんだけど。釈迦如来は4番目に出てきた。あれっと思った。天台宗だと、あんな順番になるのかなあって。ちょっと驚いた」

昭雄「我々はド素人集団だから、如来様の順番が重要だと思うんだけども・・・。実は、どうでもいいんじゃなあい。宗派によって違うんだもの」

久美子「う~ん。五か三か? 直ぐに謎が解けると思ったのに、全然前に進んでいないわ。私としては真っ暗闇だよ。どうする眞田さん?」

眞田「うん。謎解きが簡単でないことは、初めから何となく思っていました・・・。私としては、もしかしたらと三人に期待していたんだけど・・・」

昭雄「申し訳ないですねえ・・・」

眞田「いやいや。そんなことないですよ。おかげで、謎解きのヒントみたいなものがうっすらと見えてきたような気がします」

久美子「それ、本当なの?」

眞田「今ほどの久美子さんの直観力で、はっきりと感じました」

久美子「私の直観力・・・? うれしいわ。お世辞でも・・・」

島田「それって、何?」

眞田「一つは、讃阿は五体寄進した・・・、つまりね、五体造ったという専門家の意見は今のところ存在しないということ。逆に、”もとは五体有った” ということは確かだということ。このあたりに謎の本質があるのではと感じました・・・」

昭雄「私もそんな感じがしました」

島田「でどうするの?」

眞田「今手元にある資料は、ここまでしかない。一旦、検討会は休止して、資料収集をお互いがする。でどうかな?」

久美子「何をするの?」

眞田「そうだよねえ・・・。まず、三体の如来様についてだ。解体した時に胎内に墨で書いた文字が発見された。まずは、これを正確に把握する。それと如来様の大きさ。”見た感じでは・・・” なんて、いい加減なことじゃなく実測値はないのか? あとは久美子さんが言った “・・・” の部分に何が書いてあるのか? 頸南学術総合調査の全文を入手したい。こんなところかな?」

久美子「五体の内、二体は胎内市の乙宝寺に移されたとも言ってるのよね。そして焼失した。今は現存していない・・・。胎内市の乙宝寺側に何か資料がないのかしら?」

島田「一体は群馬県のお寺に移ったと聞いたような気がするけど・・・」

昭雄「そうだ。私も聞いたよ」

久美子「成程、胎内市の乙宝寺で焼失した如来様が、三善讃阿が寄進した五体の内の二体の如来様かどうか? か、これが分かれば謎が解け始めるかも・・・」

昭雄「寺野郷土誌に何か書いてないかなあ?」

眞田「そうだよね」

島田「で、次の検討会は、何時?」

久美子「来週の今日でどお?」

昭雄「了解」

島田「分かりました」

眞田「それじゃ今日はこの辺で散会しましょう」

 

 

 

第七章 井上鋭夫教授の『中世の頸南』

 

一週間が過ぎた。

約束の時間通り、男三人が、玄関先に到着した。

眞田「お早う!寒くなったね」

昭雄「お互い、時間通りだね」

島田「久美子さんは?」

眞田「もう来てるんじゃなあい。中から音がするよ」

ドアを開けると

久美子「お先に失礼!」

眞田「待った?」

久美子「少し前に着いたのよ。お湯を沸かしておいたから、コーヒーを入れるわ」

島田「有難い! 体が冷え切っている」

昭雄「久美子さん、どうしたの? そんなに張り切っているのは?」

久美子「えへへ。実は、この一週間、忙しくて、資料収集できなかったの・・・。だから、みんなに申し訳なくて・・・」

昭雄「なあんだ。そんなこと・・・。私だって似たようなもんだよ。気にしない、気にしない」

久美子「有難う。はい。コーヒー」

眞田「ジャ~、早速、始めましょうかね」

島田「誰からにする?」

眞田「前回の続きという意味で、私からでいいかい?」

久美子「ああ」

眞田「先ずは、井上鋭夫教授の資料を図書館で探したら、こんなのが見つかった。コピーしてきたから、これを読んでみてっ!」

眞田が配ったコピー用紙には、『中世の頸南』というタイトルが付けられていた。

もちろん筆者は井上鋭夫である。

目次は

 

1.関山権現

2.山寺薬師

3.恵信尼墓塔

4.善性門徒

 

となっている。

眞田「220ページ、中段を見て! 昭雄さん、ここを読んでみて下さい」

昭雄「読むよ・・・  ”薬師・弥陀・釈迦の像を持つ山寺薬師は、現在は真言宗に属するが、もとは大日・宝照・弥陀・釈迦・薬師の五仏を祀って天台宗であったらしい” 

眞田「さあて、”もとは” の意味はどのように読み解きますか? 久美子さん?」

久美子「先週の謎解きの時、宗派によって御本尊が違うって・・・。だから、薬師・弥陀・釈迦を祀ると真言宗。大日・宝照・弥陀・釈迦・薬師を祀ると天台宗とも読めるわ。ということは、”もとは” の意味は、はるか昔のことなんだろうかねえ」

昭雄「私は、仏像の順番に注目したんだが・・・。真言宗は、薬師が一番目、釈迦は、三番目。天台宗は、大日が一番目、薬師が最後。弥陀・釈迦の順番は変わらない・・・」

島田「ということは・・・?」

昭雄「天台宗の頃と、三善讃阿が寄進した山寺薬師の頃とは全く年代が違うのでは・・・と思いました」

眞田「何となく、大昔は、たけのやま山麓の信仰は天台宗で、五仏を祀っていた。だから、山寺薬師の時代になっても、これは真言宗の時代になっても、という意味だよ。如来様は、五体有ってもいいんじゃないか、という風に井上教授は考えちゃったみたいだよね」

島田「でも・・・、井上教授は、”真言宗は三体だ” と言っているような気がするよ」

久美子「うん、うん。五体だったら、天台宗だもんね」

眞田「ということは、井上教授の文章から読み解くと、”三善讃阿が寄進した如来像は最初から三体だった” となるよね」

昭雄「確かに、そんなような結論になっちゃうよなあ」

眞田「そうなると、三島義教さんの単なる思い違いってことかなあ・・・。久美子さん、次に移っていい? 久美子さん・・・」

 

 

第八章 釈迦如来と阿弥陀如来のすり替え

 

島田「久美子さん、聞こえてるの? どうしたの? 顔色悪いよ?」

久美子「私、とんでもない発見しちゃったわ。こんなことって有る? 再び如来様すり替え事件・・・」

島田「再び如来様すり替え事件? まだ、そんなこと言ってるの。 薬師様とお釈迦様のすり替えは、もう既に解決済みだよ。それは先週終わったことだよ」

眞田「しいっー。島田さん。黙って! 久美子さん、なんか発見したんだね? そうだよね。 言ってごらん」

久美子「この写真。この写真なのよ。今度は、お釈迦様と阿弥陀様がすり替わってるの。何故? 何故? 何故?」

昭雄「お釈迦様と阿弥陀様が、すり替わってるって、何のこと・・・?」

久美子「島田さん。山寺薬師の三尊像で両手を膝に乗せているのは、何如来? だったっけ?」

島田「阿弥陀如来だよ。向かって左側の如来様だ」

久美子「間違いないよね!」

島田「間違えなんてないさ」

久美子「この写真を見て! 両手を膝に乗せているのは釈迦如来になってるのよ」

眞田「嘘だろ・・・ えっ、本当だ! 何だこりゃ! 」

 

 

 

島田「ああ・・・ また一つ謎が増えちゃった」

久美子「でも・・・  井上教授ともあろう人がこんな重要なこと間違うかしら? 間違う筈なんてないわよね。ねえ、眞田さん?」

眞田「う~ん。何と言っていいのか・・・?  う~ん・・・」

島田「久美子さん。ということは、山寺薬師堂の壁の説明書きの方が間違っているということになるよね」

昭雄「それは、ちょっと有り得ないと思うよ」

久美子「眞田さん、何故、井上教授はこんな単純間違えしたのかしら?」

眞田「単純間違えねえ・・・? 単純間違え・・・か? うんうん、そういうことか。成程ねえ・・・」

久美子「何独り言、言ってるの?」

眞田「ああ、この写真では、間違えたことと正しいことがある・・・。久美子さん、分かりますよね?」

久美子「正しいのは、真ん中は薬師如来様であるということです。間違いは、両袖の二体の如来様がすり替わっていること・・・かしら?」

眞田「もうひとつ、正しいところは?」

久美子「まだ有るの? 何かしら?」

島田「久美子さん、もうひとつの正しいものを見つけましたよ」

久美子「あらっ。島田さん分かったの?」

島田「写真の説明の文字だよ!」

昭雄「文字・・・?」

島田「文字の配置」

眞田「ああそうだよ、写真の文字の配置だよね。文字の配置順序は、私達が三尊像に拝顔した時の見たままの配置となっている・・・」

昭雄「でも、如来様は、左右が入れ替わっている」

眞田「今まで、何回も三尊像の写真を撮影していて分かるんだけども、この写真の両側の如来様には、何か違和感を感じるんだよ」

久美子「私には、何も・・・ 昭雄さんは?」

昭雄「写真そのものの違和感だよね・・・ 感じません」

島田「違和感ねえ? そういえば・・・ 何となく・・・何かは分からないけど、左右の如来様の写真おかしいよなあ。いつも見ている如来様と何となく違うよなあ」

眞田「島田さんも何か感じましたか。 例えば、左の阿弥陀如来様の写真なんだけど・・・」

久美子「阿弥陀如来様・・・?」

眞田「阿弥陀如来様が向かって左にいたら、こんな写真は絶対に撮れないんじゃないのかなあ」

久美子「ど、どうして、そんなこと言えるの?」

島田「あっ、そういうことか・・・ 違和感の直接の原因が分かったよ」

昭雄「えっ、どういうこと?」

島田「いいかい。山寺薬師堂は、めちゃくちゃ狭いんだ」

昭雄「そりゃそうだよ…」

島田「だから、阿弥陀如来をこのように写真に撮ろうとしたら、撮影者は、お堂の外から撮ることになる」

久美子「まだ、私、分からないわ」

眞田「左の写真の阿弥陀如来様は、向かって右にいないとこのような写真は出来ないってこと」

久美子「???」

眞田「一般論としてだよ。編集作業で、三体の如来様を、並べて配置する時、三体共自分の方に向かせたいと思わない? この写真のようにね。でもねえ、薬師堂が超狭いため、一体づつ撮影したとすると、両袖に有る如来様は、自然と外を向いちゃうんだよ」

久美子「ああ、漸く、納得したわ。この三尊像の写真を編集作業で並べた人は、実際の薬師堂と三尊像を見ていなかったんだ。それで、見栄えをよくするために、無意識で、この配置で、三尊像の写真を並べてしまった。学生さんかな?」

島田「三尊像共、中央を見ているのは、確かに自然ぽいよね。でも私には、実際の三尊像をいつも見ているから何か不自然さを感じたってことなんだね」

眞田「そうだよ、分かりましたか? ねえ、久美子さん、如来様すり替え事件は忘れてしまって、次に行っていいですか?」

久美子さん、頷く。

 

 

第九章 松野純孝著『親鸞』の中の山寺三尊像

 

昭雄「次は?」

眞田「松野純孝先生って知ってるよね?」

島田「ああ、板倉町史の総監修者で親鸞研究では第一人者と聞いてるあの先生だよね。旧牧村のお寺の住職であり、上越教育大の学長さん」

眞田「そうそう、その松野先生が書いた著作の本の中に山寺三尊像の話が出てくる」

島田「著作って・・・?」

眞田「本のタイトルは ”親鸞” なんだ。その部分をコピーしてきたから、ここを読んでごらん!」

島田「読むよ

 

松野純孝著 親鸞より抜粋

ところで、国府の東南方三里程のところ、頚城平野を経て山地になったところに、山寺薬師(中頸城郡板倉町大字東山寺)がある。この山寺は往時から、この地方で山寺三千坊と呼ばれているところである。本尊は薬師座像(丈量1.42㍍膝張1.20㍍)で、左右にこれよりやや小さい釈迦・弥陀二尊を脇侍とした三尊形式をとっている。しかし、もとは薬師を中心とする五仏の残りと言われている。中尊薬師の胎内墨書銘に、

大檀那 三善讃阿

應永二年大才乙亥7月2日

大仏師 筑後法眼

とある。この大檀那三善讃阿はどういう素性の人であったか、くわしく知る史料は見当たらないが、ともかく丈量1.42メートルを中心とする仏像五体を造立しうるほどの財力を持つ豪族級であったことは推定にかたくない。しかもこの造立に、「大仏師筑後法眼」という法眼の綱位を持った、単なる一地方仏師でないらしい筑後法眼なるものを起用したところから見て、彼は単に地方豪族といった以上に、中央とも接触を持ち得た土豪層であったか、とも思われる」

 

久美子「まあ。薬師如来は、1.42メートルだって・・・。左右の如来様はそれより少し小さいだって。私達の、感じたとおりだわ。それに、三善讃阿は仏像五体を造立しうるほどの財力を持つ豪族と言ってる。仏像五体と書いてるわ」

昭雄「そうだよね。最初から五体あったと松野先生は明言している。そうか、地元が生んだ親鸞研究の権威者の松野先生が仏像五体と言ってるんだ。”山寺薬師の如来様は五体有った” と、地元の皆が言うのも頷けるよなあ・・・」

島田「うん、新発見だねえ。ビックリしちゃったよ。五体説の出所が、松野純孝先生だったとはねえ・・・」

久美子「ちょっと、おふたりさん。そんなところで感心しちゃって、本当にいいの?」

昭雄「?」

島田「?」

久美子「文章を裏の裏まで読まなくっちゃ。松野先生はね ”しかし、もとは薬師を中心とする五仏の残りと言われている” って書いてるのよ。また、”もとは” という単語が出てくるのよ。それと・・・ ”言われている” とも書いてるわ。これは、松野純孝先生自身が言っているんじゃないと思うわ。誰か他の人が言っているんだわ。私は、 ”もとは” の意味は、井上鋭夫教授の場合と同じだと思うわよ」

眞田「つまり、地元に言い伝えられている伝説は ”五体有った” というだけのことなんだね。成程、年代を無視すれば、このこと自体は正しいんだものね」

昭雄「う~ん、そうか。そういうことか・・・。さすが久美子さん」

島田「成程」

眞田「どうやら、ひとつの結論に達したようだね・・・。でも、100%まではまだのようだけども・・・」

 

第十章 胎内市乙宝寺の三尊像

 

久美子「ねえ、私達の結論が一応正しいと仮定したらよ・・・天台宗の頃の五つの仏像はどうなったと思う?」

昭雄「次に考えなきゃならない重要な問題点なんだね」

島田「五体の内、二体がどこかに移された。地元の言い伝えは二通り有る」

久美子「二通り?」

島田「 ”二体は胎内市にある乙宝寺に移された” という言い伝えがある。もう一つは、”一体は乙宝寺に、もう一体は、群馬県のどこかのお寺に移された” という言い伝えだ」

昭雄「そうそう」

久美子「最初のお話だと、移されたという仏像は、大日如来と宝照如来なの?」

島田「それは、何如来かは確定できないと思うよ。乙宝寺が真言宗だから、一体は恐らく大日如来だと思うけどもね」

久美子「それなら、乙宝寺に行けば、その大日如来様に会えるのかしら?」

島田「それがねえ・・・。言い伝えによると、火事に遭って焼失したので分からないんだって」

久美子「まあ。それじゃ、山寺薬師に残された三体の仏像の方はどうなったの」

島田「それも、戦火で焼失した・・・だから、今は、どこにも、ひとつも、残ってない」

久美子「じゃ~、二番目のお話よ! 群馬県に移されたというそのお寺には、今も仏像は有るの?」

島田「それがねえ。具体的な情報は何もない。そのお寺が現存しているのかどうかさえ分からない」

久美子「な~んだ。全てが全て、何の手がかりもないってことなんだ・・・ああ。もお。お先真っ暗!」

眞田「久美子さん。そんな風にがっかりしないで。私たちの謎解きはこれからが本番だよ」

久美子「なあんて・・・。私達を喜ばせて・・・。手がかりは、全部無くなっちゃったのよ」

眞田「久美子さん。もしも、胎内市の乙宝寺の焼失した仏像の写真が手に入ったとしたら・・・?」

久美子「えっ。どこから?」

眞田「ネット検索したらヒットした」

島田「どれどれ?」

眞田はスマホに写し出された仏像三体を三人にに見せた。

 

 

 

眞田「乙宝寺の火事は、昭和12年の出来事だそうだ。説明によるとお堂が火事になり、中に入っていた、旧国宝の木造大日如来座像、木造阿弥陀如来坐像、木造薬師如来座像が焼失したらしい」

久美子「焼けた如来様は国宝なの? 凄いよねえ。山寺薬師の如来様は、国宝じゃないよ」

島田「上の写真が大日如来像だよね、下が薬師様と阿弥陀様か・・・」

眞田「そうだね」

島田「山寺薬師の如来像とは随分違うような感じだけど。皆はどう思う?」

昭雄「上半身が随分細身だよ。それと頭の髪の毛は全然違う。それに、一番の相違点は ”国宝” だな」

島田「山寺薬師の三尊像を国宝にしようという住民の活動が有ったと聞いているが、今も尚、県文化財だよ」

久美子「つまり、山寺薬師の三尊像と焼けてしまった乙宝寺の如来像がこれほど違うということは、山寺薬師から移ったとする如来様ではないということだわ」

眞田「益々、山寺薬師三体説が有力になった感じかなあ・・・?」

久美子「ねえ、天台宗の頃の五体説はどういうことになるのかしら?」

島田「二体或いは一体が乙宝寺に移ったと仮定したら、その如来様は、年代は更に古いから、国宝になる可能性は強いと思う」

久美子「可能性は否定できないということなのね」

昭雄「ねえ。移ったと私達は言ってるけど、胎内市の乙宝寺からすれば、もともとはここの乙宝寺に有ったものが、今の乙宝寺に昔有ったというだけで、乙宝寺側からすれば ”移って” とは思っていないんだろうね」

眞田「そうか、そうだよね。表現には少し配慮が必要なのかもね」

 

久美子「焼失した乙宝寺の三尊像で少し気になることがあるんだけど」

眞田「なあに?」

久美子「国宝は大日如来だけ? それとも、三尊像とも国宝なの?」

眞田「それは私も気づいていたんだよ。文章からだと、どちらにも読めるんだ。でも、写真を見てごらん。”國寶三尊”と書いてあるよ。だから、三尊像とも国宝だよ」

久美子「そうだとしたらよ。薬師如来様と阿弥陀如来様も有るんでしょ。天台宗の頃に山寺に有ったとされる五体の内、三体が胎内市の乙宝寺に有ることになるのよねえ。何か、不自然だよ。私は、胎内市の三尊像は山寺の乙宝寺に有ったとされる如来様ではないような気がしてきたんだけど・・・」

眞田「その可能性は、大いにあると思う。胎内市の乙宝寺で新たな別の三尊像が造られた可能性の方が、十分有り得るよ」

島田「成程、成程。ということは、天台宗の頃の話には、我々は、あまり突っ込む必要はないってことなんだよね。要は、最初の謎解きのテーマに沿って、三善讃阿が寄進した時の如来様は何体有ったのかだけを検討すればいいってことなんだね」

 

第十一章 山寺三尊像胎内の墨書き文字

 

眞田「まあ、そういうことなんで、次の検討課題に進みますが、よろしいでしょうか?」

昭雄「分かりました。それで、次の検討課題って?」

眞田「山寺薬師三尊像そのもの・・・。解体調査したら、胎内に文字が書いてあったって・・・」

昭雄「三島さんは、三体とも何か文字が書いてあったって書いてるとか・・・」

島田「私は、二体だけだと聞いているけど・・・」

久美子「詳しい記録はないのかなあ?」

眞田「じゃじゃ~ん」

久美子「?」

眞田は新たなプリント用紙を三人に配った。

眞田「図書館でようやく見つけたんだよ。最初は、調査時の報告書がないかなと思ったんだけども、なかなか見つからなくてね。図書館員の方に協力を願って漸く見つけ出したのがこれなんだよ。文末に ”以上、昭和34年5月新潟大学戸張幸雄教授の修理報告による” と書いてある・・・」

久美子「まあ、すごい貴重な資料、見つけちゃったのね・・・」

眞田「上越市管内の仏像を全て網羅している資料だと思うよ」

島田「成程、この資料は初めて見るよ。さて、何が書いてあるのかなあ?」

眞田「じっくりと、検討していこうよ」

三人はもう真剣にプリントを読み始めている。

久美子「表題は中頸城地区となってる・・・。そして、最初の仏像が薬師如来だ」

島田「その場所は、”中頸城郡板倉町東山寺 薬師堂” となってる」

眞田「あそこは今は ”お寺” じゃないんだね。今までは、 ”山寺” というお寺だと思っていたんだけども・・・。”薬師堂” ね。現在管理しているのは、東山寺集落だものね」

昭雄「この資料が編集されたのは、市町村合併前だ・・・」

久美子「三尊像の名称だけど・・・。木造薬師如来坐像・木造釈迦如来坐像・木造阿弥陀如来坐像となっている。その下に、像高が書いてあり

    薬師如来  145.5センチメートル

    薬師如来  142.5センチメートル

    阿弥陀如来 140.0センチメートル

と書いてある。何か変よ!」

昭雄「釈迦如来の名がない」

島田「ほんとだ。何んで、薬師如来が二体有るの?」

眞田「あ~あ、これは、明らかに、文字の打ち込みミスだよ。困ったもんだね。こんな単純ミスをするなんて」

久美子「そうだよねえ。2段目の薬師の文字は釈迦に読み正していいよね。皆さん、どうかしら?」

島田「ああ」

眞田「久美子さん、正しく読み直してみて」

久美子「薬師如来  145.5センチメートル

    釈迦如来  142.5センチメートル

    阿弥陀如来 140.0センチメートル」

昭雄「高さを比べると、見た感じ通り、薬師如来が一番座高が高い。次いで、釈迦如来だ」

久美子「それぞれの高さが違うとはねえ。釈迦如来と阿弥陀如来は同じ高さだと思っていた・・・」

眞田「次は、胎内に書かれた文字について・・・久美子さん」

久美子「それを議論する前に、変な文章があるよ」

眞田「どこ?」

久美子「最初の文章だよ。初めて聞いたわ。”16匹の猿” だなんて。眞田さん。”ふたりの猿” なら、分かるんだけどなあ」

眞田「ああ、このことだね。私は今回の謎解きテーマからかけ離れているので、無視しちゃったんだけど・・・」

久美子「島田さん。”16匹の猿” って聞いたことある?」

島田「初めてだよ。昭雄さんはっどお?」

昭雄「私も初めて聞くよ。ひとつの猿なら聞いたことがあるが・・・」

久美子「それって何?」

昭雄「昔々、猿俣川の近くで、猿の形をした石が発見された。その石は、日枝神社に奉納されている」

島田「”見ざる、言わざる、聞かざるの三猿像” の社の中にあるあの石のことだね」

昭雄「そうそう、とにかく、山寺には猿の話が多いんじゃ。でも ”16匹の猿” は初めて聞いたよ」

眞田「ふたりの猿が、写経をしてもらうために、山の物をお供え物としてお寺に持ってきた時、古典書には、”多数の猿が持ってきた” と書いてあったようだけど・・・。”16匹の猿” の16という数値は見当がつかない。でも、面白いよね。またまた、謎が一つ増えた・・・」

久美子「じゃー、謎の16匹の猿の文章については後回しにして・・・いいですか? 一応、原文を下に書いておきます」

 

山寺は天智天皇の白雉年間のに木ノ実高と云う僧によって開かれ、16匹の猿によって供養されたと云う伝説のあるこの地方の古刹である。

 

眞田「続けましょう」

久美子「先ず、薬師如来様からだよね。う~ん・・・。よく分からないねえ・・・。う~ん。三島さんの ”中世の越後三善氏” の記述とは少し違うようだよ」

昭雄「いやいや、全く違うのじゃないのかなあ」

島田「私は、天と地ほどの違いだと思うよ。この資料は、”以上、昭和34年5月新潟大学戸張幸雄教授の修理報告による” と書いてるので、こちらの方を信ずるべきなんだろうね」

久美子「あ~あ~。三島さんたら、どんな資料を参考にしたのかしらねえ?」

眞田「そうだよねえ。私達も三島さんと同じような間違いをしないために、ここは原文のまま、読者に提供したほうがいいのかもよ」

久美子「分かりました。そうします」

それが下の写真である。

 

眞田「さ~てっと。この墨書きの文章について、皆で検討を始めましょうかね。誰から発言しますか?」

島田「私からでいいでしょうか? 先ず、全体からですが・・・ 1、2、3、については薬師如来に関すること。4、は釈迦如来に関すること。そして、阿弥陀如来はここに記述の文章がないので、胎内の墨書きは無かった。と考えますが・・・」

久美子「島田さん。1、2、3、は薬師如来に関することっていうのは・・・ それでいいのかしら?」

島田「えっ、違うの?」

久美子「2と3の ”同後背裏面や同台座裏面” の ”同” は間違いなく薬師如来の後背と台座だと思うわよ。 でも・・・、3、には、”釈迦如来” という文字が有る」

島田「う~ん。え~と・・・それは・・・」

久美子「3の ”釈迦如来 村田善左ヱ門” は、どう考えようと薬師如来ではないよね」

島田「参りました。そのようですね。え~と。昭雄さん、バトンタッチ!」

昭雄「そんな急に振られても・・・私には、分かりませんよ。それよりも、久美子さん、何か気づいているんでしょ?」

久美子「ええ、後背と台座は宝永二年になってるでしょ。宝永二年は1705年よ。つまり江戸時代に制作したということが分かります。そして ”三尊” とあるので、薬師如来の後背と台座には、釈迦如来と阿弥陀如来の分も含めて、墨書きしたということが分かります」

眞田「成程。薬師如来の台座裏面の墨書きの意味は、”大仏師法橋 □慶” が薬師如来と阿弥陀如来の台座を制作したが、釈迦如来の台座だけは ”村田善左ヱ門” が作った。ということになるんだね」

島田「さすが、久美子さん」

昭雄「ねえ。(その1) の ”大名持尊 須久名彦尊” って何のことだろう? アッ、それと(その1)(その2)って墨書きの文字なの? 」

眞田「括弧で書いてあるんだもの。墨書きではないと思うよ。それと、”大名持尊” とは大黒様、つまり、大国主命(おおくにのぬしのみこと)のことで、”須久名彦尊” とは少名彦命(すくなひこのみこと)で、知恵の神様や縁結びの神様。この二人のコンビが祀られている神社は全国に結構あるみたいだよ」

久美子「さすが眞田さん神話には詳しいんだね。へ~、仏像の胎内に神様の名前が書かれているんだ。昔々の寺野の言い伝えには、たけのやまに ”白丈神” が顕れるんだったわね。その ”白丈神” は大国主命だ」

昭雄「たけのやまの神話がここでも繋がっているんだね・・・」 

眞田「で、話を元に戻します。え~と、なんだっけ?」

島田「三善讃阿の名前は、正しくは、薬師如来の胎内にしかなかった。釈迦如来にも、阿弥陀如来にも三善讃阿の名前はなかった」

昭雄「うん、でも、例え、薬師如来にしか名前がなかったとしても・・・、三体の如来様の作風が殆んど似てるから、三善讃阿が寄進したことには間違いがない」

島田「私には、薬師如来にしか名前が書いてないという事実は、何か重要な意味があるような気がしてしょうがない・・・。と、私は感じるんだよなあ」

久美子「ねえ、三善讃阿を大檀那って呼ぶのは、何となく、意味が分かるんだけど・・・。この墨書きをした人物は誰かしら? 三善讃阿じゃないよね。自ら ”大檀那” なんて言わないから・・・」

眞田「いつもながら、久美子さんの視点は鋭いねえ」

島田「墨書きをしたのは誰か? って。三善讃阿以外だと仏師本人しかいないよ」

久美子「あら、もう一人いるわよ。勧進沙門祐山て名があるわ。勧進沙門祐山って何のことかしら?」

眞田「勧進の意味は、”寺社・仏像の建立・修繕などのために寄付を募ること” なんだって」

久美子「じゃあ、沙門は?」

眞田「出家した僧侶のこと」

久美子「祐山は、名前じゃないかな?」

眞田「多分・・・ね」

久美子「つまり、寄付金集めは、僧侶の祐山がやりましたってこと?」

島田「村人を始め大勢の人から広く浄財を集めたってことなんだ。多額のお金は、三善讃阿が拠出したことは間違いがないと思うが・・・」

昭雄「このような如来様の寄進事業では、大勢の賛同がなければ、成り立たないってことなんだね。その中心には当然大檀那三善讃阿が居た」

久美子「話を元に戻すわよ。墨書きをしたのは誰かってことだったわね。浄財集めの番頭さんのような役割の僧侶祐山さんなら、三善讃阿のことを大檀那と呼ぶのは理解できるわ。しかし、大檀那の直ぐ下に、ご自分の名前を書くかしら。私が祐山なら絶対に書かないわ。だから、墨書きしたのは、やっぱり、大仏師筑後法眼だよ」

昭雄「その意見に大賛成」

島田「如来様を彫った当人が如来の胎内に署名をするのは、極当たり前だ」

眞田「だとしたら、阿弥陀如来に墨書きの署名がなかったのはどうして?」

島田「う~ん。常識的に考えると、越後法眼に何らかの事故があった」

昭雄「殆ど彫り終えていたけれど、完成直前に事故があった。体調を崩したとか、京の都に呼び戻されたとか・・・としか、私には思いつかないなあ」

久美子「ということは、四体目や五体目の如来様が有るわけないということになるよ」

島田「三体説がさらに確定したってことなんだね」

眞田「釈迦如来には勧進沙門祐山の名前が有るけど、寄進者の三善讃阿の名前が無いのは何故なの?」

島田「筑後法眼の署名は有る・・・」

昭雄「墨書きししたのは筑後法眼であることは間違いがないと思う。でもねえ、釈迦如来の方が最初に彫られたんだよなあ・・・。う~ん・・・」

久美子「よ~く比べて見て! 釈迦如来の方は ”作者六条仏所筑後法眼” 薬師如来の方は ”大仏師筑後法眼” だよ」

昭雄「意味は、同じ・・・、じゃない・・・、 いやいや、違うな。そうか・・・、何となく分かってきたぞ」

久美子「何をぶつぶつ言ってるの・・・仏師昭雄殿!」

昭雄「前々から、不思議に思っていたんだよなあ」

久美子「不思議に思っていた・・・とは?」

昭雄「こんな、素晴らしい如来様を三体も彫った ”筑後法眼” という名前をネットでいくら検索しても・・・、全くヒットしないんだよ。山寺薬師の三尊像以外は・・・ね。その理由が漸く、今、分かったよ」

久美子「その理由って・・・。説明してよ。早く。もったいぶらないで!」

島田「アッ。そうか、そういうことだったのか。私も、今、分かったよ」

久美子「まあ。島田さんも分かったの・・・。眞田さんはどうなの?」

眞田「さっぱり、分かりません」

島田「それと、釈迦如来が最初に完成したという理由も分かりました。ねっ、昭雄さん」

昭雄「そうそう」

久美子「もう! おふたり共、いい加減に白状しなさい!」

昭雄「はい。最初から説明いたします。板倉豪族の三善讃阿様は、山寺薬師に三尊像を寄進する構想を立てました」

久美子「それで・・・」

昭雄「そのためには、先ず、仏師を選定しなければなりません。そして何よりも、その仏師がどのような如来像を造ることが出来るかも重要です? さてどうしたらいいですかねえ? 久美子さん」

久美子「まあ、私に質問なの? 意地悪ね」

島田「その続きは、私も一言。昭雄さんいいですか? 多分同じ意見だと思いますので・・・」

昭雄「どうぞ、どうぞ」

島田「ここ越後には、如来様を彫ることの出来るような仏師はいませんでした。そこで、三善讃阿様は、最も信頼のおける部下、つまり、僧侶の祐山を京の都に派遣することにしました」

昭雄「祐山は役所でいえば、収入役のような人だね。さて、祐山は京の都のどこに行けば目的の仏師に出会えるのでしょうか?」

島田「その時代、京の都には、仏師達が集まっている ”仏所” なるものが有りました。その場所は六条仏所と言い京の六条に有りました」

昭雄「六条仏所には、大勢の仏師たちが日々仏像制作の修業をしていました」

久美子「仏像制作の工房で、それぞれの仏師達がが思うがままの仏像を造り切磋琢磨していたんだね」

島田「さて、制作の終えた仏像はどうしていたと思いますか? 久美子さん?」

久美子「また質問なの? それは、工房の部屋の中に並べて陳列していた・・・。買い手が現れるまで・・・」

島田「そこを、祐山が訪れたんだよ。そして、祐山は、あの釈迦如来に出会った。祐山は、 ”この如来様なら、讃阿様はお気に召すに違いない” と確信した」

昭雄「さて、久美子さん。祐山は、釈迦如来に出会った後、どのような行動を起こしますか?」

久美子「また私に質問なの? 昭雄さんの意地悪もここまでくると、段々と面白くなってきたわ。ちょっと待って・・・考えるから・・・。 取り敢えず、讃阿様に報告をする・・・だろうなあ」

昭雄「報告する? どうやって?」

久美子「えっ。そうか。現代なら、スマホで写真を撮ってメール・・・なんだけど・・・それは無理ってことか・・・手紙じゃ、とても如来様の素晴らしさを表現できない・・・し・・・。う~ん。降参します。昭雄さん」

昭雄「島田さんの出番だよ」

島田「先ず、手付金を払って、如来様を確保する。と同時に、その如来様を彫った仏師も確保しなきゃならないな」

久美子「それからどうするの? 報告はどうするの? 如来様の確保って具体的にどうするの?」

島田「そうか・・・。久美子さんの言うとおりだね。手付金じゃ、ダメなんだね」

久美子「私、分かったわよ」

昭雄「おっ、そう来なくっちゃ。久美子さんどうぞ」

久美子「全額、即金払いで釈迦如来を確保する。そして、如来様を、分解して越後に運搬する。と同時に、筑後法眼と弟子の仏師達も一緒に連れて帰る」

島田「越後に着いたら?」

久美子「筑後法眼が釈迦如来を組み立て完成させる。その後、大檀那の讃阿様と釈迦如来は、晴れてご対面だ」

昭雄「いいぞ! 久美子さん」

久美子「組み立てる直前に、筑後法眼は自分の名前と、即金で釈迦如来を買ってくれた ”祐山” の名前を如来の胎内に墨書きする」

島田「三善讃阿の名前を書かなかった理由は?」

久美子「筑後法眼は、三善讃阿の名前までは祐山から教えてもらってはいなかった」

昭雄「もしも、讃阿様に釈迦如来を気に入ってもらえなかったとしたら・・・と祐山は考えたんだろうね」

島田「組み立てた場所は、越後板倉だ。という証拠があるよ」

昭雄「証拠?]

島田「ここの文章だよ。釈迦如来の頭部の墨書きの日付の明徳五年は、七月五日に改元して、応永元年となるって。ということは墨書きの ”明徳五年甲戌七月十日"  は存在しない。越後板倉にはまだ改元のことが知らされていなかったと説明されている」

久美子「まだ他に証拠があるわよ。この時点では、筑後法眼は大仏師の称号を得ていなかった。だから、墨書きは ”六条仏所筑後法眼” なんだ」

昭雄「そうか。スポンサーが現れたということで、急遽、筑後法眼に ”大仏師” の称号が与えられたんだ」

島田「翌年完成した薬師如来の墨書きの ”大仏師” がその証拠だよね」

久美子「如来様の胎内に墨書きが有ったことで色々なことが今回分かったわね。すっごく楽しかったわ。ねえ、次の話題に移らなあい? 眞田さん」

眞田「黙って聞いていたけれども、面白かったよ。私が、入る余地なんて1ミリもなかった・・・」

久美子「それで次の検討よ。次は何?」

眞田「次に移る前に、ひとつ気にかかることがあるんだけども・・・」

久美子「なあに?」

眞田「何故、三尊像は国宝になれないんだろうかってこと」

島田「地元は国宝にしたいと思って市に何度も陳情したと聞いているが・・・」

眞田「国宝になれない本当の理由は聞いてるの? 島田さん」

島田「その理由は知らないんだ。何が、ダメなんだろうねえ」

眞田「それでね。三尊像を改めて、よくよく観察してみたんだけど・・・」

久美子「観察って?」

眞田「国宝になれない理由は何かってことを頭の中に入れて、三尊像を見てみると・・・」

久美子「私も、改めて観察してみよっと・・・。ふたりも観察して!」

眞田「説明文には、こんな風に書かれているんだよ。 ”しかし、他面では、その面相など、長四角の箱型のまわりを削り丸めたたような単調さが感じられ、予期する程の量感をも感じさせないもの” とね」

久美子「まあ、散々な講評じゃなあい。これじゃ国宝なんぞ、推薦できないって言ってるのも同じだわよ」

昭雄「うん、単調だと言われれば、三尊像共、顔も姿も同じように見えるよね」

島田「そういわれると、一卵性の三つ子みたいだよね」

久美子「そうなんだよねえ。だから、私、 ”如来様がすり替わった” なんて変なこと口走っちゃった」

島田「顔や体形は同じ仏師の作品だから同じような表現になるのはやむを得ないかもしれないけど・・・衣のしわまで一緒だとは・・・?」

久美子「なあに、衣のしわって?」

島田「如来様の身にまとった衣のしわまで、同じにする必要なんて有るのかなあ」

昭雄「島田さん、どこを見てるの?」

島田「衣全体さ。三尊像とも同じところに同じ衣のしわがある。これって、絶対に、不自然だと思わないかい?」

久美子「固定化、マンネリ化。躍動感に欠ける。単調か・・・」

島田「そういわれると納得しちゃうなあ」

眞田「それでね、何故こうも、同じ如来になってしまったのか? 少し調べてみたんだ」

久美子「どういうこと?」

眞田「この資料を、図書館で手に入れた後、文章をさっと読んで・・・国宝になれない理由は何故? と思ったんだよ」

島田「国宝になれない、本当の理由は・・・。分かったの?」

眞田「仏像の国宝級は、平安・鎌倉までのものが多いんだって」

久美子「山寺薬師三尊像は、室町時代の作だよ。年号が書いてあったから間違いないわ」

島田「何故平安・鎌倉時代までなの?」

眞田「平安時代に、定朝(じょうちょう)という仏師が顕れるんだよ。平等院鳳凰堂の阿弥陀如来座像が有名なんだけども・・・。その定朝仏師が亡くなると、仏師達は三つの流派に分かれるんだ。院派・円派・奈良仏師だ。院派は藤原摂関家関係の担当となり、円派は白川上皇、鳥羽上皇の担当となる。奈良仏師は、奈良の興福寺関連の担当だよ」

久美子「ふ~ん」

眞田「久美子さん。ふ~んって?」

久美子「ごめん」

眞田「久美子さん。最も有名な仏師は誰?」

久美子「また私に質問なの? それは、運慶じゃなあい?」

眞田「そうです。運慶は、分派した奈良仏師の系列なんだ」

久美子「運慶の仏像は、今にも動かんばかりの迫力ある仁王様。山寺薬師三尊像とは作風は正反対だよ」

眞田「その通り! 院派や円派は伝統を重んじる、古典的な派。一方の奈良仏師派は野心的、革新的」

島田「何故そうなったの?」

眞田「定朝の直系が院派なんだけど、藤原摂関家関係の仏像を造っていたから、保守的にならざるを得ない。仏像を造る依頼も多かった。一方の奈良仏師には造仏の依頼が次第に少なくなった」

昭雄「分かった。そのため、斬新的な仏像を奈良仏師派は作るしかなかった。生活し生きるためには・・・」

眞田「鎌倉時代になると、源氏は鎌倉に幕府をおいた。その結果、関東に仏像制作の需要が増えた。奈良仏師派は関東に進出する」

久美子「ねえ、筑後法眼は何派なの?」

昭雄「ネットで検索しても、分からなかったよ」

眞田「”院派” で検索してごらん。昭雄さん」

昭雄「院派・・・・・・・・・ね」

島田「どうですか?」

昭雄「Wikipediaによると・・・。ほら、”院派は平安時代から室町時代の仏師の一派。七条大宮仏所、六条万里小路仏所を形成し” とあるよ。そして、主な仏師として、”院吉(法眼) 定審(駿河法眼)” という名前が書いてある」

眞田「筑後法眼は六条仏所にいたことから、筑後法眼が院派仏師であることは、多分間違いないと思うよ」

島田「筑後法眼は伝統を重んじる院派に属していたから、古典的な様式から抜け出すことは出来なかったということなんだね。同情するなあ」

久美子「まあ、島田さん、筑後法眼に同情してたって謎は解けないよ。次の謎解きに行こうよ」

 

第十二章 16匹の猿

 

昭雄「分かりました。すっきりしました。ジャングルに入って東西南北が分からず、右往左往したけど、漸く密林から抜き出たという気持ちです」

眞田「で、これで終わりにしましょうか?」

島田「そうですね」

久美子「ちょ、ちょ、ちょっと待った・・・。まだやり残していることがあるよ」

眞田「そんなの有ったっけ?」

久美子「島田さん?」

島田「えっ、私?」

久美子「島田さん、折角持ってきた貴方の資料、披露しなくっていいの?」

島田「いいよ、もう。たまたま家に有った資料だもの」

久美子「兎に角、何が書いてあるのか、資料見せてよ」

島田「我が家のタンスの中に、有ったものなんだけど・・・。プリントしてきたから・・・」

久美子「どれどれ・・・。これね。”山寺関係文書” だね。延徳二年八月・・・・か。昭雄さん。延徳二年て西暦何年か教えて?」

昭雄「ちょっと待ってよ。ええと。延徳だね・・・。1489年から1492年だよ」

久美子「な~んだ。三尊像寄進の時より、ずっと後だねえ」

島田「計算すると、80年ぐらい後になるよ」

眞田「この古文書の書かれたのが、1490年頃だとしても、内容はどうなのか? ですよ」

久美子「でも、昔の文章なんて、とても私には手が出ないわ」

昭雄「2枚目に、凄い写真があるよ! 写真の説明書きが有って、”山寺薬師堂三尊仏(応永二年七月二日落慶)” となってる。応永二年七月二日て、薬師如来の墨書きの日付と一致しているよ」

久美子「薬師如来の胎内の墨書きと一致してるの? 釈迦如来は前年。阿弥陀如来は翌年完成だったわね」

昭雄「う~ん。”山寺薬師堂三尊仏” って如来様の方なの?それとも薬師堂なの?」

眞田「 ちょっと紛らわしいけども・・・。括弧の中に落慶という文字が有るよね」

昭雄「ああ」

眞田「ほら」

眞田はスマホで「落慶」を検索して三人に見せた。

眞田「昭雄さん。読んでみて」

昭雄「落慶とは寺社などの新築または修理の完成を祝うこと。成程・・・」

久美子「なーんだ。山寺薬師堂が完成したんだ」

 これまで、黙っていた島田さんが突然声を発した。

島田「これこれ、私が子供の頃に見たのは・・・これだよ! 如来様と拝顔者の境には、この鉄の網が張ってあった」

眞田「そうか。そういうことだったんだ」

久美子「なあに? 眞田さん、何か分かったの?」

眞田「実はね、三体目の阿弥陀様が完成するまで、如来様をどこに保管していたのかなあ? と前から疑問に思っていたんだけど、今分かったよ。保管場所は山寺薬師堂だったんだ」

久美子「うんうん。二体目の薬師薬師如来の制作を始めると同時に、如来様をお祀りするお堂も讃阿さんは造り始めたんだね。そして、薬師如来が完成すると同時に、お堂も完成した。そこに、釈迦如来と薬師如来を納めたんだ」

島田「その時は、阿弥陀如来は、まだ制作に取り掛かっていない」

昭雄「そうか、向かって左は、阿弥陀如来用として、開けてあった。つまり、三善讃阿は三体が入る三尊像用のお堂を造ったということになる」

久美子「つまり、五体説は、この資料からも完全否定されたということになるよ。島田さん、この資料よく見つけたね」

島田「えへへへ。たまたまさ」

久美子「写真の横に、前頁だ・・・。こんなことが書かれているよ」

眞田「どこ?」

久美子「読むわ!」

 

”古く滅亡した山寺は五仏であったのかもしれない。それを三善讃阿が三仏として再建したものであろうか、そのことは文献の上からも様式の配置の上からも覗われるのである”

 

島田「な~んだ。ここに答えが書いてあるじゃないか。私が、子供の頃に聞いた ”本当は五体有った” というのは何だったんだろうか・・・」

眞田「言い伝えって、そんな物かも知れないよ。その他、何かなあい?」

昭雄「ここって、どう解釈するのかなあ? 古文なのでよく分からない」

久美子「どこ、どこ?」

昭雄「ここ!」

 

 猿ノ十六山猿供養寺開起ス

 

久美子「まあ。”十六匹の猿” が出現したわ。十六匹の猿の言い伝えは本当に 有ったんだ」

島田「十六匹のお猿のお話か・・・。本当だったんだねえ」

昭雄「でも・・・、何か引っかかるんだよなあ。文字は、確かに ”十六の山猿” とも読めるんだよね。でも、そう読んじゃうと、次の文字は ”供養寺” となっちゃうよ。”猿ノ十六” で、十六匹の猿というんだろうか?」

久美子「ねえ、眞田さん、何考えてるの。私達一生懸命議論しているのに・・・」

眞田「御免、御免! 私も、色々考えていたんだよ・・・。私はね、みんなとは違って、下から読んでみた・・・」

島田「えっ、下から読むって?・・・」

眞田「一番下の ”開起ス” というのは、多分、お寺が完成したという意味のようだよね」

久美子「うん、完成したとか、落成したとか・・・多分そうだよね」

眞田「その上の字は ”猿供養寺” だ。つまり、猿供養寺が完成したということになる」

久美子「うん、うん」

眞田「問題はその上の ”山” という文字だ。久美子さん、お寺の名前の上につく ”山” って、何か思いつかない?」

久美子「山ねえ・・・。あっ、分かった。”山号” だ!」

昭雄「成程!」

島田「”山号” だ!」

眞田「そう、久美子さんの言う通り ”山号” だ。となると、猿供養寺の ”山号” は何かな?」

昭雄「それって、寺野郷土誌稿にも載っていたよね」

島田「寺野郷土誌はここに持ってきてるよ。ちょっと待ってね」

昭雄「ホームページにも書いてあったと思うよ」

島田「有った。有った。”丈六山猿供養寺” と ”浄楽山猿供養寺” のふたつが有る」

久美子「分かった。つまり、 ”丈” の文字を ”十” に読み間違えた・・・」

島田「もしかしたら、”ジョウロクサン” を訛って、”ジュウロクサン” と言った・・・」

昭雄「私の解釈は、”ジョウロクサン” という言葉が先に有って、漢字にしたとき ”十六山” となった」

眞田「はははは。まあ、何れかだろうね」

久美子「ねえ。”猿ノ” っていうのはどんな意味なのかしら?」

昭雄「 ”猿の謂れを持つお寺“ という意味じゃないのかな?」 

島田「賛成!」

眞田「結論として、十六匹の猿のお話は、寺野郷には無かった・・・で・・・謎解き完了・・・。皆さん、検討会は、これで終わろうか?」

昭雄「そうだよね。コーヒーでも飲んで終わりにしようよ」

 

第十三章 新たな謎の出現

 

久美子「あの~、あまり重要でないと思うけど、最後にひとつ聞いてもいいかしら?」

眞田「どうぞ・・・」

久美子「この資料の ”猿供養寺開起ス” の後の文章に、”乙宝寺が開闢(かいびゃく)し” となっているのよ。私達、如来様の順番凄く気にして議論してきたよね。島田さん、山寺五山を順番に言ってみて」

島田「 ”華園寺・乙宝寺・猿供養寺・佛照寺・天福寺” だよ」

久美子「その順番は、入れ替わったりしないの?」

島田「絶対に入れ替わったりしないよ。なんたって、お寺の建った順番だもの・・・。寺野郷土誌にも有ったけど、華園寺は管長寺、乙宝寺は乙寺だよ」

昭雄「その乙寺に猿が来て山で亡くなった。亡くなった猿を供養したのが、”猿供養寺” というお寺さ」

久美子「そんなこと分かってるってば。分かってるから、再確認してるんだから・・・」

島田「久美子さん、何を苛立ってるのよ。久美子さんらしくないよ」

久美子「島田さん、昭雄さん、ここを読んでみてよ。ここにはその順番は間違いだと書いてある!」

島田「ええっ???」

眞田「久美子さん、また、えらいところに気づいてしまったね。そうなんだよ。この古文書には ”猿供養寺の方が先に開起した” と書いてあるんだよ」

久美子「何よ、眞田さんも、気づいていたの? 意地悪ね」

眞田「ああ。でもね、ここに、こんな説明もされているよ。22ページ。”この文献によると内容が可成時代的に錯誤の箇所もありおそらく伝説をおぼろげに記述したものであろう” とね」

久美子「ということは、島田さんの言う順番は正しいって断定していいのね?」

島田「そうさ。村の言い伝えは、絶対に正しいさ。ねえ、昭雄さん」

昭雄「そうだよ。乙宝寺に猿がやってきたんだよ。乙宝寺が先に建てられたに決まってる。これ以上余計な詮索はしないで! 久美子さん」

久美子「申し訳ございませんでした」

眞田「いやいや、久美子さん、結論を急がないで!」

久美子「あらっ?」

眞田「いい。京の都で編纂された古典書では、確かに乙寺に猿が来たとなっている」

昭雄「そうだ、そうだ」

眞田「でも・・・地元の古文書 ”寺野郷土誌稿” では・・・」

昭雄「アッ。そうだった・・・思い出した。お猿さんは、乙宝寺に来たとはなっていなかった」

島田「そうなの? 昭雄さん」

久美子「そうよ。私も思い出したわ。確か、猿が来たのは ”観音堂” だった。それで、猿が死んじゃったから、乙宝寺と猿供養寺が建てられることになったと ”寺野郷土誌稿” には書いてあった。あの時、これって、嘘じゃないかしら? と思ったけども・・・ふたつめの新事実の古文書が、今、出てきたんだ」

眞田「さあ、皆さん、どっちの方を信じますか?  京の都で編纂された古典書か? それとも、地元に伝わるふたつの古文書の方か?」

昭雄「う~ん。これはもう、私としては、地元のふたつの古文書を信じるしかないよなあ。島田さん、どう?」

島田「京の都で編纂された古典書と地元のふたつの古文書か? う~ん。頭が混乱して、今は、どっちにするかなんて簡単に言えませんよ」

眞田「そうですか・・・。いずれにしても、次回の、謎解きのテーマが見つかったようですね。今日はこれくらいでお開きにしましょうよ」

久美子「次もまた、楽しい謎解きの会になりそうね・・・」

島田「次回も呼んでくれませんでしょうかね」

久美子「当然です。島田讃阿殿・・・」

島田「ははっ。有りがたきお言葉。久美子恵信尼殿」

久美子「うふふふふ」

 

 

                  お わ り

実は、もうひとつ、持参の資料を披露するのを忘れていました。

申し訳ないです。

その資料とは、”板倉町史・集落編” の東山寺集落の項です。

東山寺集落の区長さんが纏めた ”山寺薬師堂” の説明では次のように述べられています。

 

山寺三千坊の時代、山岳仏教として栄えた乙宝寺跡地に、戦火焼失後の応永年間(1394~1428)に再建された唯一の堂で、現在・・・・・・(中略)・・・・・・昭和52年本堂大修理納経堂建立。

 

と、記載されていました。

この文章から

 

山寺薬師堂は建設されてから、昭和52年まで改築などは一度もなかったと読み取れます。

会員の島田さんは、子供の頃、改築前のお堂を実際に見ており、そのお堂の規模は、改築後、つまり現在のお堂と変わっていないと証言していますから、『三善讃阿が寄進した如来様の数は、最初から三体であった』ということがこの資料からも証明出来ました。