恵信尼ミステリー

【始めに】

令和2年、いたくら文化研究会から ”不思議板倉郷” という小冊子が発刊されました。巻頭言には、 ”あまりにもミステリー感満載な文化を持つ板倉” と紹介されており、最初の章が ”恵信尼にまつわる不思議”    とあります。恵信尼様といえば親鸞聖人の奥様ですよね。そして、恵信尼様は板倉では知らない人はいない程の超有名人です。その恵信尼様が板倉郷で最初のミステリーの登場人物とは正直驚きました。たけのやまファンクラブとしては、これまで、恵信尼様は地元板倉郷で充分研究され語りつくされた人物として捉えており、当ホームページでの取り扱いを何となく避けてきました。ところが、  ”皆で推理したい恵信尼消息の謎” という章で、 ”この様な不自然さをつなぎ合わせ板倉と周辺を調べれば、もしかしたら何か発見があるのではないかと、楽しみにしておりますので、皆さんもこの謎解きに参加してもらいたいです” と書いてあります。という訳で、早速、歴史好き? の会員の昭雄さんと久美子さんに招集をかけ、この ”恵信尼様出生に関わる謎解き” に果敢に、無謀に、我々の無知をさらけ出して挑戦することに致しました。

(たけのやまファンクラブ謎解きの会  司会 眞田弘信)

無謀な挑戦か?

  恵信尼様出生の謎を解く

第一章 謎解きの会始まる

 

司会眞田(以下眞田)「お忙しいところ急に招集をかけて申し訳ない」

会員昭雄(以下昭雄)「オミクロンでどこにも行けなくて暇を持て余しています。丁度良かった。何かあったの?」

会員久美子(以下久美子)「私も暇、暇。何か面白いことな~い?」

眞田「実はね、恵信尼様の謎解きを三人でやろうじゃないかと思ってね」

久美子「えっ、恵信尼様の謎解き? あの恵信尼様・・・? 私、あまり興味ないんだけどなあ」

眞田「まあ、そ~言わないでよ」

久美子「何で急に恵信尼様なの?」

眞田「う~ん。以前から恵信尼様の出生地については謎が多いということは何となく認識していたんだけれどもね。一方で、何やってるんだよ。地元がこんな重要なことをいつまでも解決できないって可笑しいんじゃな~い? って感覚も同時に抱いていたんだよ」

昭雄「うん、うん。それもそうだね」

眞田「そして昨年、 ”不思議板倉郷” が出版された。ほら、この本だよ。土砂災害防止功労賞の祝賀会の時にみんなに配布されたんだけど・・・。読んでみると、相も変わらず ”恵信尼様の出生には謎が多い” と書いてあった。つまり、今も尚、何ひとつも解決していないということが分かった」

久美子「そうなんだよ・・・。恵信尼様の出生には、謎がいっぱいあるけれど、いつまでも結論を先延ばしにしてるんだよねえ。私達、いつまで待てばいいのかしら・・・」

昭雄「で、我々三人で恵信尼様出生の謎解きをやるって言うの? 無理、無理、そんなの出来る訳ないじゃん」

眞田「昭雄さん、そんなことのっけから言わないでよ。簡単な事でないことは、私も十分承知なんだから」

久美子「もしかして、『たけのやまの神話の謎解き』の時もそうだったけど、眞田さん、もしかしてよ、何か、解決の糸口を掴んだんじゃないの?」

眞田「流石、久美子さん、実はそうなんだよ。数日前 ”中世の越後三善氏” という本が私の所に届いたんだ。送り主は ”三善啓昭” さんという人。まだ最後まで読んでないけど・・・」

久美子「まだ読んでないって? あら、どうして?」

眞田「うん、文章がやたら難し過ぎるんだよ。だからみんなで一緒にという訳なんだけど・・・。その本は、ほら、ここに持ってきてるよ」

久美子さん、早速手に取って眺めている。

久美子「三善氏って、どこかで聞いたような名前ね? あら、表紙の写真は ”たけのやま” だわ」

昭雄「三善氏ねえ・・・。確か、山寺薬師堂に有る三尊像の寄進者が三善讃阿と言う人じゃなかったかなあ?」

眞田「凄い。昭雄さん、そうだよ。良く閃いたね。他に、何か気が付かな~い?」

久美子「その三善家は恵信尼様のご実家じゃなかったかな。そして、恵信尼様は親鸞聖人と結婚した・・・」

眞田「その通り。恵信尼様の旦那様は親鸞聖人だ。久美子さん、それで、男と女が結婚したら、まず何をする?」

久美子「何よ突然。質問の意味が今いち分からないわ」

眞田「ごめん、ごめん。結婚したかどうかという証明はどうする?」

久美子「ああ、役所に婚姻届けを提出する。夫の戸籍に入る。お婿さんの場合は逆」

眞田「そうだよね。じゃあ、恵信尼様が結婚した平安・鎌倉時代は?」

久美子「婚姻届けも戸籍謄本も、住民票すらないわ」

眞田「そうなんだよ。恵信尼様が誰の子供なのか? 誰と結婚したのか? 何時(いつ)結婚したのか? 今となっては証明する手段が無い。有るのは、代々伝わる家系図やご先祖様からの言い伝えのようなものから推定するしか方法がない」

久美子「つまり、この本には、恵信尼様出生の謎解きのヒントが書かれているっていうことなのね」

眞田「ああ、そうなればいいのだけど・・・」

昭雄「何よ。何だか頼りないよね。でも、板倉のこの辺りでは三善姓の人なんて聞いたことがないけど・・・」

眞田「三善氏というのは、恵信尼様の時代から約400年程続いた大豪族だった。それが、突然上越地域から三善氏の名が消えてしまったという」

久美子「恵信尼様の時代から400年後といえば、戦国時代あたりだよね」

眞田「そうだよね。1521年、越後守護代の長尾為景が一向宗禁制令の ”掟の事” を厳命した。この掟は非常に厳しいものだったので、これまで一向宗を擁護してきた三善家は一斉に土地財産一切を捨てて中下越方面に流転の旅に出た」

久美子「まあ。そんなことがこの本に述べられているの? だから、板倉には三善姓の人はいないんだね。ところで著者のこの ”三島義教” さんでどんな人?」

眞田「最後のページの著者紹介によると、昭和8年生まれ。今、88歳位かな。東大卒。福島県出身。下越出目の近世善八屋号父祖に・・・と有るので、三島さんの父方の系統は新潟県下越地方出身で屋号を ”善八” と言ったらしい」

久美子「それで、著者の三島義教さんは、ご先祖様のことをいろいろ調べ始めたというのね」

眞田「そうみたいだ。調べた結果、”善八” という屋号は、三善姓に繋がるということが次第に分かってきた。それで、今度は、三善姓を徹底的に調べ始めたという。平安・鎌倉時代から現代までだよ。そして、ようやく、”上越地方から忽然と消えてしまった豪族三善氏は新潟市の北区に一族が寄り添って住んでいる” ことを突きとめたという」

昭雄「新潟市に一族が寄り添って住んでいるって・・・? そこまで突きとめたの? 凄いな~!」

眞田「実はね。もうひとつ、不思議なことが有ってね」

久美子「不思議なことって?」

眞田「この本を私に届けてくれたのは、”三善啓昭” さんという人なんだけど・・・、最近、仕事の関係で初めてお目にかかったんだ。どちらかというと向うから会いたいと言ってきた。新潟市内の建設資材の会社の営業マンだ。名刺交換で、苗字が、”三善” というのをその時初めて知った。珍しい名前なので、『もしかして、板倉に縁があるのでは?』 と、当てずっぽうで聞いてみた。すると、『実は、そうなんです』という答え。からかわれたと思って 『嘘だろう』 と言ったら、数日後、彼はこの三島義教さんの本を送ってきた・・・という訳」

久美子「ふうん。そうなの・・・」

昭雄「それって、ごく普通の、何処にでもあるような話の展開じゃないの? この本の著者の三島義教さんはご自分のご先祖である三善氏のことを徹底的に調査し、本にした。その本を読んだ三善姓の三善啓昭さんは、その本を眞田さんに送った。だからといって、三島義教さんのご先祖の三善家と最近眞田さんが会ったという三善啓昭さんが三島義教さんの親戚筋だという証拠にはならないよ」

久美子「そうよねえ・・・眞田幸村が眞田さんの親戚だと言ってるようなもんだよ」

眞田「確かに・・・。でも、その三善啓昭さんの一族が新潟市の北区に住んでいて、大昔に、板倉からここに移ってきたというご先祖からの言い伝えが有ると言ったらどう?」

久美子「それだけじゃ・・・ねえ。他には何かないの?」

眞田「三善啓昭さん家は、三善家の宗家だそうよ。そして、啓昭さんのお父様が、親から直接聞いた話では、先祖は ”親鸞権妻恵信尼の実家” だって・・・」

昭雄「う~ん、豪直球できたかあ。 ”親鸞権妻恵信尼の実家” ねえ・・・。それなら、信じるしかないよなあ・・・」

眞田「話はこれで終わりじゃない・・・。不思議な話はこれからまだ続く」

久美子「えっ、まだ続きがあるの?」

次に取り出したのが、上越郷土研究会発行の ”頚城文化58号 ”   だ。

 

昭雄「おっ、この本なら、持っているよ」

久美子「私も持ってるわ。一応、読んだわよ」

昭雄「私も、ざっと、目は通したよ」

眞田「発刊は平成22年9月号だから今から12年も前のものだよ。 ”親鸞と妻恵信尼特集号” となっている。今回の我々の謎解きにピッタリの本だ」

久美子「それで。何かしら? 不思議なことって?」

眞田「三島義教さんの本が三善啓昭さんから送られてきた後、恵信尼関連の本が確か本棚に有った筈だと思い、探したらこの本が見つかった。この本は、会員の安原義一さんが、『この本に寄稿したので読んで欲しい』 と私にくれたのを思い出した。そして、不思議なことに出会ったんだ」

久美子「それって、怖いお話なの?」

眞田「そうではないよ。先日初めてお会いした三善啓昭さんが、12年前のこの本の中に実名で出ていた・・・。ということは、この本を既に読んだ久美子さんと昭雄さんは、”三善啓昭” という名前に既に出会ってるということになる」

昭雄「ええっ?」

久美子「本当なの?」

眞田「ほら、ここ。28ページ。”最初は上越に、それから流れて、弥彦から現在地に流れた。現在地には新発田藩命により笹山村開村地主として三百余年定住した。屋号親様を伝える三善宗家。家紋鷹の羽違い。現当主三善啓昭氏” とね。そして、この文章の寄稿者は ”中世の越後三善氏” の著者の三島義教さんだった」

久美子さんも昭雄さんも、たった今、何が起きたのか直ぐには理解できず、暫く黙り込んでしまった。

無理もない。ふたりが所有している ”頚城文化58号” に間違いなく、 ”三善啓昭” という名前が載っているのだから。

眞田「正直なところ、私も、最初は偶然が重なっただけと思った。でも、これって単なる偶然で終わらせていいのだろうか? と思い直した。何かを示唆しているんじゃないかって思い始めた。私に 『恵信尼様の謎を解け』 と。何かは知らないけれど、テレパシーみたいなものを感じたんだよ。それに今、ふたりから聞いて驚いてるんだけれど、三善啓昭氏の名前が載っている ”頚城文化58号” は、久美子さんも昭雄さんも持っていた。久美子さん、昭雄さん、これって、何か運命的なもの感じなあい?」

思いもよらない展開に、ふたりはどう答えるべきか戸惑って次の言葉が出てこない。

暫くして、漸く昭雄さんが口を開いた。

昭雄「でもね~。素人の我々に今まで歴史家の誰も解決できなかった恵信尼様出生の謎解きなんてできる訳ないよな~」

久美子「私もそう思うわ。いくら何でも荷が重た過ぎるわ」

眞田「私だって、同じだよ。でもねえ。我々って、はっきり言って、ど素人集団でしょ」

ふたりとも同時に頷く。

眞田「そんな無能な我々に、謎解きを依頼してきた・・・」

久美子「依頼してきた??? それって、三島義教さん? それとも三善啓昭さん?」

眞田「違うよ。恵信尼様、ご本人だよ」

久美子「まあ~驚いた。謎解きの依頼人は恵信尼様なの?」

眞田「だって、三島義教さんにも三善啓昭さんにも謎なんてないもの。謎の有るのは恵信尼様本人。その恵信尼様が全くのど素人の我々3人に『謎を解いて欲しい』 と言ってきた」

昭雄「う~ん」

眞田「歴史の専門家じゃない、我々みたいな、ど素人にね。ど素人だからこそできる謎の解き方って、もしかして有るのかも知れないよ」

久美子「私ね~。恵信尼様本人に謎が多いのではないと思うわ。恵信尼様が大好きな全国の歴史研究者達が自分勝手に自分流の ”恵信尼ミステリー” を作っちゃったのよ。きっと。だって、真実はひとつなんだよ。この謎で、一番迷惑を感じているのは・・・恵信尼様・・・なんだよねえ~。ふう~」

久美子さんは、深い溜息を吐き、天井を見上げた。

昭雄「ちょっと頭の中を整理したいね。コーヒーブレイクにしようか?久美子さんブラックでいいかい?」

久美子「お願いします」

 

 

第二章 恵信尼様出生の謎とは?

 

久美子「眞田さん、恵信尼様の出生の謎を私達ふたりにも分かる様に整理してもらえませんか?」

眞田「そうだね。大雑把に言うとね、

 

  ①恵信尼様の親は誰か? 

  ②恵信尼様の生まれた場所はどこか? 

 

かな?」

久美子「えっ、そんな簡単に整理できちゃうの???」

眞田「他にもあると思うんだけど、大きな謎はこのふたつ」

久美子「それで?」

眞田「恵信尼様の親については、得知紘昭氏は『恵信尼は生粋の京都の女性(実父=藤原兼房、実母=藤原経宗娘、育ての親=藤原兼実)で決して三善為教(則)の娘ではなく、その誕生は寿永元(1182)年6月7日、入寂は文永7(1270)年9月18日・・・』と、”頚城文化58号” で述べている」

久美子「父親と母親が藤原姓つまり貴族の家柄で、京の都生まれ、そして、生まれた年月日も亡くなった年月日も判明しているのね」

眞田「これに対し、『恵信尼様の男親は、三善為則か三善為教。どちらも ”ためのり” と読むことが出来るので、為則と為教は同人物』というのが現代の通説となっている。また、本願寺の家系図に、『恵信尼は三善為教の娘である』 との表記がある。藤原(九条)兼実の書いた ”玉葉” に、三善為則という名前が有る。ということから、三善為教又は為則は京の都の官僚ということになる。恵信尼様の教養の高さは若い頃、京で修業しなければ身につかないという指摘がある。つまり越後の片田舎では、あれほどの教養は絶対に無理という訳だ。更に、親鸞聖人と初めて出会ったのは京の ”吉水草庵” だと言われている。それに、親鸞聖人が越後に流刑になる前に、親鸞聖人の長男が生まれている」

昭雄「長男が生まれたってことは、相手は恵信尼様なの? どちらにしても、恵信尼様の京生まれは、確定だな」

久美子「じゃあ、決まりじゃな~い」

眞田「ところがそう簡単ではない」

久美子「あらっ?」

眞田「三善為教は越後介に就任していた。越後介は京の官僚に与えられる役職だ。とは言っても越後に赴任する必要はない。しかし、越後国に行っていない訳でもない」

久美子「何を言いたいの? じれったいわねえ」

眞田「つまりね、恵信尼様を生んだ母親がどこに住んでいたかが問題なんだ。男性は子を産めない。子を産むのは女性だ。しかし、母親が誰なのか、何処に住んでいたのか、これが、分からないときた」

昭雄「つまり・・・」

眞田「例えば、母親は板倉の人だった。恵信尼様は板倉で生まれた後、幼い頃に、父親がいる京の都で育てられた。そして高い教養を身につけた。ということも考えられるってことさ」

久美子「まあ」

眞田「しかも、”不思議板倉郷” にも恵信尼様の母親についての記述は一切ない」

昭雄「恵信尼様の母親の名前が分かれば、一瞬に謎が解けるってことなの? 得知紘昭氏説には母親の名前が有ったわね。藤原経宗娘と・・・。こちらの方が真実に近いんじゃないの?」

眞田「まだ結論を出すのは早すぎる。他にまだ異説が存在する」

久美子「まだあるの?」

眞田「 ”頚城文化58号” に松金直美氏が寄稿している文章の中に 『親鸞の御室ハ九条殿ノ祖月輪殿下兼実公ノ御息女、号玉日ノ君ト(大谷嫡流実記)』 と書かれているという」

久美子「つまり?」

眞田「九条兼実の娘である玉日は、剃髪後に恵信尼と名乗ったというんだ」

昭雄「第三案が出て来た!」

眞田「ただ、この ”大谷嫡流実記” は19世紀半ばに作られたと有るので、私としては今回は除外しても良いのでは?」

昭雄「そうだね。今の所、得知紘昭氏説と現代の通説の二説についてどちらが真実なのか、謎を解いていけばいいんだね」

久美子「その謎解きの参考書が三島義教氏の ”中世の越後三善氏” という本ね」

昭雄「何だか楽しみになってきたぞ」

久美子「わくわくしてきたわ」

眞田「といったところで第2回目のティータイムにしない? 喉が渇いちゃった」

久美子「ええっ。そんな~。いいところなのに」

眞田「ごめん。次の議論を進めるために ”中世の越後三善氏” を読む時間が欲しいんだ。15分ぐらい。お願い!」

久美子「これから読むの? 驚いた。いつも行き当たりばったりなのね。眞田さんは」

 

第三章 恵信尼様の両親の居た場所は、京か越後か?

 

昭雄「何か浮かない顔してるようだけど。大丈夫?」

眞田「もう少し時間くれる?」

久美子「ねえ。恵信尼様の実母の名前は有ったの?」

眞田「う~ん。今の所、何処にも書いてない。つまり、謎のまま」

久美子「えっ、期待外れ」

眞田「58ページに三善為則と恵信尼の父娘関係という章がある」

昭雄「それで?」

眞田「第一項に『為則』と『為教』の異同についてという項で

 

(1)玉葉で『為則』の記事が有る。

(2)『大谷一流系図』で兵部大輔三善為教女、法名恵信

 

と書いてある」

昭雄「そこまでは ”頚城文化58号” に書いてあったと眞田さんは説明したわ。現代の通説のひとつとして」

眞田「そうなんだよ。続いて・・・文章をそのまま正確に言うと

 

(3)今日、為則と恵信尼につき主要な論点は、第一に為則が、越後国の在庁官人か京都の中央官人かの区分であり、第二に妻の恵信尼が、為教の娘か為則の娘かまたは他の娘かの見方の違いにある。

 

と書いてある」

久美子「これも、 ”頚城文化58号” に書いてあったわよ。 ということは、著者の三島義教さんいいセンスしてるわ」

昭雄「ちょっと待ってよ。単に、スタートラインに戻ったってことなんじゃないの? ちっとも、議論が前に進んでいない」

眞田「私もそう思うんだ。だから困ってるんだよ」

久美子「その続きは? それで終わりなの?」

眞田「続いて、近年の主要な説の推移を示している」

昭雄「それで?」

眞田「石井進説、平雅行説、井上慶隆説、平松令三説、今井雅晴説」

久美子「???」

眞田「簡単に言うと、先の二人は在庁官人説、井上氏は中央官人説、平松氏は良く分からない説、今井氏は中央官人説だ」

久美子「その、在庁とか中央とかってな~に?」

眞田「在庁というのは越後板倉の役人のことで、中央というのは京の都の役人という意味です」

昭雄「ちょっと待って。三善氏は大豪族だったというから、武士の親分のことと思っていたんだけど?」

久美子「私は、庄屋さんみたいな感じ。土地成金のような親分が小作人を使って益々お金を貯めた・・・。新潟県下によく有る豪農よ」

眞田「三善家は、そのどちらでもないらしい。役人が正しいらしいよ。当時はね。その後、板倉に根付いて、地方豪族化したと三島義教さんは説明している」

昭雄「何が何だか。さっぱり分からなくなっちゃったね」

久美子「ところで三島義教さんは結局、どっち派なの?」

眞田「三島義教さんはね。 『単にどの説に賛成かじゃなく、その時代の社会や組織、風習など全てを踏まえた上で、自説は在庁官人説だ』 と述べている」

久美子「わあ~。漸く、一筋の光が差し込んだ! 三善家が在庁官人だということは、当然、恵信尼様の生まれた場所も板倉だよね。板倉生まれの私としては、三島義教説を支持するわ。いいでしょ。眞田さん」

眞田「今の所は、それでいいと思うよ。都合が悪くなれば、即訂正すればいい」

昭雄「私も、賛成。それで、三島義教さんの板倉官人説の理由は?」

眞田「一言では、説明しきらない」

久美子「例えば?」

眞田「板倉が天皇直轄領だったことは知ってる?」

昭雄「そうなの? 全然知らなかった」

久美子「私も、そんな話、初めて聞いたわ」

眞田「親鸞聖人の流罪先が何故、越後なのか? 越後に行けと命令したのは誰か? 越後板倉では、親鸞聖人は屋敷も畑も田圃も小作人も与えられたという。だから、親鸞聖人は恵信尼との間に6人もの子をもうけることができた」

昭雄「う~ん??? 言われてみれば・・・そうなんだ、という感じがしてきた」

久美子「縄で縛られ、大きな鳥かごに入れられ、罪人として越後に運ばれたとばっかり思っていた・・・」

眞田「三島義教さんによると、天皇直轄領の板倉の役人としての三善氏がいたから、越後が選ばれ、越後までの道中も担当役人が宿や食事のお世話をしながらお連れした」

久美子「へ~、そうなの。知らなかったな~」

眞田「このへんで3回目の休憩はどお?」

久美子「賛成! 知らないことばっかりで疲れちゃった」

 

第四章 頚城文化58号に寄稿した方々の主張は?

 

久美子「10分程ウツラ、ウツラしちゃったみたい。今は、気分爽快。昭雄さん、眞田さんはどこへ行っちゃったの?」

昭雄「顔を洗いに行ったみたいだよ。ずっと、本を読んでいたから。疲れちゃったのかな」

久美子「今までの我々の結論は、三島義教説で 『恵信尼様は板倉で生まれた』 だったよね?」

昭雄「一応わね」

久美子「一応?」

昭雄「現代の通説では、京都説、板倉説のふたつが有る。三善為則又は為教がどちらに住む官僚だったのか? 我々の結論では、三島義教説が正しいと判定して、三善為則は板倉の役人、恵信尼様は板倉が出生地で確定。でも・・・」

久美子「でも?」

昭雄「おひとりだけの得知紘昭説については、まだ一切議論していない」

久美子「そうなんだよね。何かしら片手落ちだなって気になっていたんだけれども、そうそう、恵信尼様は三善氏の娘ではない説だ」

昭雄「これを片付けないと次へ進めない」

そこへ眞田が帰ってきた。

眞田「ごめん。ごめん。もう始めちゃったの?」

昭雄「眞田さん、大丈夫ですか? 休憩中、ずっと本を読んでいたから」

眞田「ああ、気になっていたことが有ってね。得知説なんだよ」

久美子「今、私達もそのことについて昭雄さんとお話していたのよ」

眞田「ふたりとも気付いていたんだね。寄稿文には 『すべての資料を徹底的に分析した結果、少なくとも恵信尼の全貌に関することについては見事に解明できたのである』 と御自分の説が唯一正しいと自信満々な表現なんだよ。ところが、この説に同調する人が ”頚城文化58号” を読む限りひとりもいない」

久美子「検証できないの?」

眞田「得知氏は ”親鸞の妻 恵信尼の生涯” という本で説明したと言っていて、 ”頚城文化58号” には詳しく述べられていない」

昭雄「その本は、何処かで手に入らないの?」

眞田「県内では、上越市立図書館で1冊だけ置いてあるようだ。でもそれを読んだからと言って・・・」

昭雄「どうしたの・・・?」

眞田「得知さんの文章は、特に難解なんだよ。我々が読みこなせるかどうか。どうも自信が無い」

久美子「じゃあ、どうするの?」

眞田「自分の自説がたったひとりの場合、凄く大変なんだよなあ」

久美子「あらっ。眞田さん、確か、『以仁王は京都の宇治の戦いで死ななかった。越後に逃げて来た』 って主張してたわね」

眞田「ああ。以仁王が平家軍に殺されたことは教科書にも載っているから、このことに反論する人は日本国内には誰一人としていない。それを否定する場合、全ての史実となっている事象を理論的に且つ、完璧に論破しなければならない。説明が長くなるので、やめるが、果たして、得知氏がそのような説明を行っているのかどうか? だね」

昭雄「それじゃ、結論は持ち越しってこと?」

眞田「ところが、面白い事実に気付いてしまった」

久美子「まあ。そう来なくっちゃ。サスガー!」

眞田「おだてないでよ。説明するから。な~んだなんて言わないでよ」

昭雄「分かった、分かった。早く説明して」

久美子「何。何?」

眞田「 ”頚城文化58号” で得知氏は、『大場厚順先生から原稿依頼があった』 と述べている」

久美子「それが何?」

眞田「せかさないで」

久美子「ごめん」

眞田「一方、三島さんは ”中世の越後三善氏” の中で ”頚城文化58号” について、『本誌掲載の都度重ねてご便宜を賜った編集の故大場厚順先生に心から謝意を捧げるものである』 と述べている」

久美子「あら、大場先生という人はお亡くなりになったの?」

眞田「 ”頚城文化58号” から ”中世の越後三善氏” 迄12年開いているから、この間に大場先生はお亡くなりになったようだね」

久美子「それで、気付いたことって何よ。早く説明してよ」

眞田「せかさないで。もう、せっかちなんだから。久美子さんは」

久美子「やだ〜ん、やだ〜ん、お恥ずかしゅうございます❤️」

眞田「別に恥ずかしがることはないと思うよ」

久美子「穴が有ったら、入りた~い」

昭雄「どうぞ、たけのやまにタヌキの穴がいっぱいあるよ」

眞田「あははは・・・。じゃあ、続けるよ」

ふたりとも、眞田が何を言い出すのか今度は無言のまま耳をそばだてている。

眞田「恵信尼様の出生について、全く意見が相反するふたりに大場先生は寄稿依頼をした。ここまではいいよね」

久美子「うん」

眞田「その大場先生が ”頚城文化58号” に恵信尼様出生についての寄稿文を寄せている・・・」

久美子「えっ。本当なの?」

眞田「本当だよ。ほら、ここ。そして大場先生はどちらの説の方を支持したのか・・・?」

昭雄「大場先生は、得知氏と三島氏に寄稿文を依頼した。つまり、それぞれの恵信尼様出生にかかわる異なる主張を載せるようにふたりに依頼した」

久美子「そして、自ら、恵信尼特集号に寄稿もした・・・。その結果は?」

眞田「ほらここ、57ページ 『・・・恵信尼の生家三善氏に関係のある、三善氏族が・・・室町期に薬師三尊像を造像し寄進するほど財力があった・・・』、59ページ『恵信尼誕生。父は三善為教と伝える』 60ページ 『父は越後国の役人三善為教と言われている』 と大場先生は書いた」

久美子「大場先生は完全に板倉出生説だ。この論理展開、まるで、推理小説を読んでるみたい」

昭雄「これで我々の謎解きは、一応終了か・・・な?」

眞田「まだまだ。恵信尼様は板倉でお生まれになった。ここまではいいよね。だけども、ふたりともこの結論に、心底納得できていますか?」

久美子「えっ、何よ、今更」

眞田「三島義教さんが、恵信尼板倉出生説を導き出した理由は、まだ、説明していないんだよ」

久美子「ああ、そうか。最も肝心なことを私達、聞いていなかったんだ」

眞田「その理由が、心底納得できれば晴れて 『板倉が恵信尼様の出生地』 であると結論できる。どうですか?」

久美子「分かりました。念には念を入れるって訳ね」

昭雄「どんな内容の説明になるのか、概略を教えてくれませんか?」

眞田「分かりました。まずは親鸞聖人と恵信尼様が登場する以前と以降に分けます。以前というのは、京の都の三善氏の事。以降とは、板倉三善氏の事」

久美子「京の都に三善氏がいて、板倉にも三善氏がいたということなの?」

昭雄「ということは、三島義教さんがそのように分けて書いているということなんだね」

眞田「そうです。但し、親鸞聖人と恵信尼様が登場する境界期間は、京と板倉が複雑に絡み合う」

久美子「分かったわ。始めて!」

 

 

第五章 板倉三善氏のルーツは、越中国から始まる

 

眞田「1049年、為康が越中国射水郡の地方官人射水氏の子として生まれる」

久美子「越中富山からこの壮大な物語が始まるのね」

眞田「18歳になった為康は、京官を志して上洛した。彼は、算博士三善為長の弟子に入り算道を学び、京官試験を受けたが何回も落ち続けた」

久美子「18歳の為康青年は、官僚になろうとして国家試験を受けたが落ち続けた・・・。ねえ、その時代に、ペーパーテストなんてあったのかしら。頑張れ、為康ちゃん」

眞田「多分、コネ、賄賂、推薦、家柄で合否判定されるんじゃないかな」

昭雄「それじゃ、地方出身の為康青年が合格するのは絶望的だわ」

眞田「当然、彼は、いつまでたっても合格できなかった」

久美子「あら、まあ。可哀想」

眞田「彼は、無職のまま、師匠の三善為長の養子となった。そして、堀河朝廷から三善朝臣の改賜姓の許可を受けた。三善姓となった為泰は52歳になって左大臣源俊房の推挙を受け、小内記に漸く初任官できた。65歳で先任者を継いで算博士になった」

久美子「成程ねえ。為康は養子になることで、射水姓から三善姓に変わった。と同時に家柄も手に入れたんだ。そして、左大臣の推薦もかあ。苦労してるんだなあ」

昭雄「驚いた。コネ、賄賂、推薦、家柄が通用する文化、風習がその頃有ったんだねえ」

眞田「三善姓となった為康は、69歳尾張介、76歳越後介、82歳越前権介になった。92歳で亡くなった。1141年頃だね。介は役職名であって現地へ行くことは必要ない」

昭雄「凄い出世だよねえ」

眞田「為康の子は、康光という」

久美子「為康の子の康光は、父親の権威で役人に簡単になれた。違いますか?」

眞田「そんな説明はこの本の中には一言もないけども、久美子さん、鋭い推理するねえ。康光は従五位下で山城介、その後外記太夫、次いで皇后多子に仕え皇后宮権大属となった。そして、1179年に亡くなった」

久美子「役職のことは良く分からないけど、為康の子も、やっぱり凄い出世なんだろうね」

眞田「翌1180年に以仁王の令旨が東国に発令される。康光の子は康信という。当然、康信は康光の役職を引き継ぐ。康信の母親は頼朝の乳母と同人だったそうだ。五位出納の任につき鎌倉の頼朝を私的に支援したという。1185年に壇ノ浦合戦が起きる」

久美子「壇ノ浦合戦か・・・。三善氏は、反平氏、親源氏なんだね。即ち、勝ち馬に乗った・・・」

昭雄「親鸞聖人はその頃?」

眞田「親鸞聖人は1173年生まれ。だから12歳頃。恵信尼様は1182年生まれ、3歳ぐらい。親鸞聖人の流刑の年は1207年だよ。射水為康が京の三善氏の養子になり、射水為康から三善為康になった。為康は76歳の時越後介の役職を得た。ところが、当時は三善氏に養子に入ったからといって、当然三善姓になれる訳ではないそうだ」

久美子「あら、そうなの?」

眞田「時の朝廷からの改姓の許可が必要だった。そして、為康は、この時に実家の射水郡の同族も同時に三善に改姓できたらしいのだ」

久美子「うまくやったね。為康ちゃん」

眞田「富山の射水氏はこの時から、射水三善氏になった」

久美子「三善氏が、富山にもできた・・・」

眞田「そして、越後介となった為康は、越後国衛の収納強化に貢献するため射水三善氏の同族の中から若手経験者を指名して板倉郷の郷司職に就けた」

昭雄「成程、板倉三善氏は、ここから始まったんだ」

久美子「それは、何年の頃かしら?」

眞田「為康が生まれたのは1049年、越後介になったのが76歳だから、足して1125年頃だね」

久美子「親鸞聖人は1173年生まれだから、50年近く前の出来事だわ」

眞田「ところが、富山の射水三善氏から板倉へ来た人の氏名は今の所不明となっている」

久美子「どうして?」

眞田「三島義教さんの本の中では、氏名が載っていない。多分、史料が見つからなかっただね。そして、恵信尼様の父親の三善為則は『二代目』と表現されている。これは史料が有った」

昭雄「その三善為則が板倉に来た年は分かりますか?」

眞田「1177年だそうです」

昭雄「一代目が板倉に来てから、50年以上経っているの?」

眞田「計算するとそういうことになります」

久美子「為則が来た1177年頃ということは・・・親鸞聖人は4歳頃だ。恵信尼はまだ生まれていない」

昭雄「ちょっとイメージが今一つなんだけど。その為則の仕事って具体的に何?」

眞田「板倉が天皇領地で有ることは前に述べたよね。為則の仕事は、特産品、代表的なものは米かな。これらを毎年、正確に収穫して年貢として天皇に収めることかな」

昭雄「うん、うん。それは、最も重要な仕事だ」

眞田「為則が、富山から越後板倉に来た5年後の1182年に娘が誕生する」

久美子「後の恵信尼様だよね」

 

 

第六章 建永の法難と親鸞聖人

 

眞田「それから25年後の1207年に親鸞聖人が越後に流されるきっかけとなったある事件が発生する」

久美子「ある事件?」

眞田「 ”建永の法難” といっている。1206年12月9日、後鳥羽上皇が熊野御幸の留守中、法然の弟子達が熊ケ谷で念仏の会を開催した。その中に御所の留守を務める女房がいてそのまま出家した者がいた。上皇は留守中のこのことを聞き、激怒した。その頃、法然の専修念仏が急激な広がりを見せていたため、比叡山の衆徒が専修念仏の停止を求めたり、興福寺においても法然の処分を求めたりしていた。この頃、前関白の九条兼実は権力の座を降り、法然上人に強く傾倒し、本事件を穏便に処遇することを求めていた。翌年2月、上皇の処断が下りた。風紀事件に直接関係した4名の僧侶は死罪、代表の法然は土佐国へ遠流、1名は破門、2名は兼実の弟の慈円が預かり、3名は不明、親鸞は越後への流罪となった。親鸞は当時は35歳と若かったが、法然の信頼が厚かったためと宗の奥義を伝えられたためか反発が強く当初は死罪に処す案も出た」

昭雄「親鸞聖人が死罪を逃れ流刑になった理由は何?」

眞田「親鸞は天皇に近い日野家の出身であった。その日野家の遠縁で九条家の家司の経歴を持つ権中納言藤原親経が反論して減刑を求め、死罪から流罪に減刑された」

昭雄「九条兼実も減刑には強く絡んでいる感じがするね」

眞田「そうなんだよ。三島義教さんは、法然の土佐国は兼実の知行国であったし、越後国もまた、兼実の権力の及んだ土地だったと書いてるよ」

久美子「越後板倉の三善為則は九条兼実の部下で信頼も厚かったということなんだね」

眞田「三善為康が苦労して越後介になったことも大きいね」

昭雄「今の話を聞いていると、親鸞聖人の流罪先が越後板倉になったのは当然の帰結なんだね。板倉以外は候補地が無かったんだ」

眞田「そこには、恵信尼もいるから・・・ね」

久美子「ちょっと、それ変じゃなあい。越後板倉の三善家に親鸞が流されて行ったら、そこに、たまたま恵信尼様がいた。恵信尼様には、板倉で初めて出会った・・・とでも?」

眞田「三島義教さんは、そのような説を述べているよ」

昭雄「恵信尼様とは、京都で出会ったという説もある筈だよ。眞田さん、そのような説明しなかったっけ?」

眞田「その京の都出会い説については三島義教さんは、こう述べているよ。『諸説では、長じて13歳にして都の貴族屋敷に行儀見習いして素養を積む機会が有ったというが、当時を物語る史料は見当たらない』 とね」

久美子「つまり、京の都出会い説を、完全否定しているわけではないんだ。史料が見つからないから、三島さん自身は、恵信尼様は京の都に行っていたかどうかの結論は出せないというのが結論なんだ」

眞田「恵信尼様が9歳の時から、九条家の越後国の知行国としての支配が18年間続いたという事実も有る」

久美子「18年間・・・ね。板倉三善氏の為則が、18年間も一度も京へ行かなかったなんて信じられないわ。年に1回や2回は財務の報告などで京へ行かなきゃ仕事にならないんじゃな~い? 宿泊場所は、ホテルなんかない時代、京の三善家の屋敷か、兼実の屋敷というのが普通かな。たまには娘もつれて行くこともある」

昭雄「その時、兼実が恵信尼様の素養を見込んで暫く預かったという可能性もあるのでは?」

眞田「でもいくら探しても、史料が無かったと三島義教さんは言っている」

久美子「真面目で正直な三島義教さんなのね」

昭雄「三島義教さんの調査研究のお陰で、恵信尼様の父親は二代目の板倉三善氏の為則というのは確定した。そして、恵信尼様は板倉でお生まれになったということも確定した。確か、恵信尼様の謎は眞田さんは

   ①恵信尼様の親は誰か?

   ②恵信尼様の生まれた場所はどこか?

だったよね。となると、これで謎は、全て解明できたわけだ」

眞田「そうだね。これで、お終いにしようか? 久美子さん良いですか?」

久美子「う~ん。まだまだ気になることがあるわ」

昭雄「な~に?」

久美子「親鸞聖人は、越後の板倉に流刑になった。板倉では屋敷や田畑を与えられ、小作人までいた。ここまでは、納得したんだけど・・・」

昭雄「それが・・・?」

久美子「恵信尼様は、そんな親鸞聖人をお世話した。そして、6人の子をもうけた。う~ん」

昭雄「そうだよ、何が言いたいの???」

久美子「恵信尼様が親鸞聖人の、いい、親鸞は罪人なのよ。罪人のお世話係になった。そして、子を生んだ。この展開、女性として許せないの! 罪人のお世話係なんて。恵信尼様のお気持ちが全く皆無。無視! 私、納得いかないんだけど・・・なあ」

昭雄「久美子さんの気持ち何となく分かるよ。久美子さんは、京の都のどこかで罪人になる前の親鸞聖人と出会ったというのなら納得できると言うんだよね」

久美子「それ、それ、それよ。昭雄さん、分かってくれて有難う。そうなんだわ。板倉に来る前から京の都でふたりは出来ていたんだ」

眞田「出来ていたんだなんて。過激発言!」

久美子「やだ〜ん、やだ〜ん、お恥ずかしゅうございます❤️」

昭雄「出た~。いよっ。久美子節」

久美子「穴が有ったら、入りた~い」

昭雄「これからたけのやまに行こうか?」

眞田「まあ、まあ。おふたりさん。落ち着いて!」

昭雄「ごめん」

眞田「確かに、久美子さんの言う通りかもしれないよね。恵信尼様は単なる罪人のお世話係じゃないと・・・。ところで、当時の男女関係の風習って知っていますか?」

 

 

第七章 通い婚

 

久美子「風習?」

眞田「 ”通い婚” のこと」

久美子「 "通い婚" ? 何、それ?」

眞田「夜になると、男性が女性の家に行く。子供が出来ると、女性の家で育てられる。育てるのは、女性の両親だ。男性は、女性の家に入る。これを、"通い婚"  という」

久美子「初めて聞いたわ。今と随分違うじゃない。男性は婿さんになるの?」

眞田「男性の姓は変わらない」

久美子「この風習を、恵信尼様で検証すると・・・。親鸞聖人は昼間は板倉の自分の屋敷にいた。夜になると恵信尼の許に通った。そして6人の子が出来た。その子は、三善家の両親の元で育てられた。つまり、恵信尼様は親鸞聖人の単なるお世話係ではない。納得、成程」

昭雄「変わり身、ハエー」

久美子「でも、やっぱり、京の都でふたりは出会ってて欲しいなあ」

昭雄「このへんでまた、休憩にしないかい? コンビニに行ってショートケーキ買って来るから。眞田さん、コーヒー煎れておいて」

 

第八章 今井雅晴氏の配信動画『親鸞の妻・恵信尼』

 

昭雄「久美子さん、何かあった? 目が輝いてるよ」

久美子「男性ふたりに、お仕事させちゃって申し訳ない」

眞田「なあに。大したことじゃないさ」

昭雄「久美子さん。お好きなのをどうぞ」

久美子「ほんとに悪いわね。チーズケーキを戴くわ。実はね。休憩中何もすることが無いから ”YouTube” を見ていたの。検索を "親鸞"  と入れたら、こんな動画が出て来たのよ」

昭雄「へ~」

久美子さんがスマホ画面を上にしてふたりの前に置いた。

その画面は 『親鸞ゆかりの人々①「法然(1)」』 と題名が付いている。東国真宗研究所 所長 今井雅晴氏のオンライン講座シリーズだった。

久美子「シリーズといってるから、何本もあるみたい」

昭雄「1年前にアップされてる。比較的最近配信の動画だね」

眞田「再生回数は500回前後か。再生回数は少ない方だね」

昭雄「久美子さん、これ、再生して見たの?」

久美子「見たわよ。10分くらいの短編よ。凄く分かり易い。今井雅晴氏の誠実さがにじみ出てる。 ”通い婚” の説明もあったわよ。今井雅晴氏によると 『歴史の研究で最も大事なことは昔の人達が残した紙に書いた史料(物語や日記など)が如何に信用できるか、何処が大事か、を根本的に調べて、親鸞の伝記と比べていくということだ』 と丁寧な口調で最初に述べている」

眞田「うん、うん」

久美子「そしてね、『その時代に生きていた人たちが、どのような悩みを持って生きていたのか。親鸞聖人はその悩みに対して、どのように教えを説いたのかが重要である』 と言っている」

昭雄「分かった。久美子さん。再生してみて。見てみたい」

10分近く、三人とも一言も発しないで、久美子さんのスマホの画面に集中した。

昭雄「 ”通い婚” の風習については、眞田さんから聞いていたので全く驚きは無かった。妻帯については、親鸞聖人が初めてだと思っていたが、当時、妻帯した僧侶はいっぱいいたとは驚き・・・、そして、始めて理論づけしたのが親鸞聖人だったとは知らなかった。肉食についても、僧侶はみんな肉を食べていたなんて、初めて知ったよ。その他、家に仏壇は無かったとか、お墓は夫婦で入らなかったとか・・・。随分、今と違うよね」

久美子「それでね、初回配信のこの動画を見た後、恵信尼様に関する動画が無いか探してみたのよ」

昭雄「有ったの?」

久美子「有った。 ”親鸞の妻・恵信尼” が。18番目に」

昭雄「見たの?」

久美子「まだよ。三人で見た方が良いと思ってまだ見ていない。ほら、これよ!」

久美子さんのスマホの画面は、下の動画画面になっていた。

昭雄「見てみたいねえ」

久美子「いい、始めるよ。お願い!『京の都に板倉生まれの恵信尼様が絶対にいて欲しい・・・』

 

第九章 謎を解くキーワードは、ズバリ ”通い婚”

 

動画が終わっても、声を出すものは誰もいない。

久美子さんは、両手で頭を抱えて何かしらもがき苦しんでいるようだ。

1、2分経って漸く昭雄さんが、久美子さんに何かを言おうとした。

それを眞田が人差し指を自分の唇に立て、昭雄さんを制した。

眞田「シィーー」

もう少し、待ってあげようという仕草だった。

漸く、久美子さんの方から話し出した。

久美子「恵信尼様は私が期待した通り京の都に居た・・・わ。そして、法然上人の門下に入った・・・。そこまでは良かった・・・。でも・・・」

昭雄「でも???」

久美子「でも、今井雅晴氏は、『三善為則は中央官人説』 派だった。そうなると、当然、恵信尼様は京都生まれとなってしまう。一方、三島義教さんは、『三善為則は板倉の役人で、恵信尼様は越後板倉で生まれた』 と主張している。そして、私達は、恵信尼様は越後で生まれたとする三島案を支持した」

眞田「今井雅晴氏の名前は三島義教さんの本の中に出ていたよ。中央官人説派だったとして。ほら、ここに」

久美子「あら、三島義教さん、知ってたんだ」

昭雄「そうだよね」

久美子「今井雅晴氏は動画の中で、『親鸞聖人が罪人として越後に来た時に恵信尼様も一緒に来た』 と言っている。ところが・・・。ここが肝腎なのよ。今井雅晴氏は、 ”通い婚” の風習に従えば、夫に付いて行くというのは有り得ないとも言っている。ねえ、これって、おかしくな~い? 今井雅晴氏は、ご自分の説をご自分で否定してるんだよ」

この久美子さんの主張には、昭雄さんも眞田も同じ疑問を感じていた。

昭雄「う~ん。又、訳が分からなくなっちゃったね。お先真っ暗・・・か」

眞田「いや、いや、そうとも言えないさ。つまり、謎の本質が漸く掴めたんだと私は思うよ。その謎の本質というのは、 ”通い婚” なんだよ。真実に一歩進んだと思えばいいんだよ」

久美子「いや~、前向き! そういう風に考えるのか? 眞田さん、サスガ~」

昭雄「じゃ~。次に何をすればいいの?」

眞田「今井雅晴氏の動画で、矛盾を生んでいるのは、 ”通い婚” であることが分かった」

昭雄「うん、そうだよね?」

眞田「もうひとつ」

昭雄「???」

眞田「今井雅晴氏のこの動画は、親鸞聖人と恵信尼様の動画だ。父親の三善為則の動画ではない。つまり、今井雅晴氏は、別の動画で三善為則についての動画があるのかないのか?   恵信尼様は法然上人の門下に入ったと言うが、10代の娘が単身で法然上人の所に行けるはずがない。それで、今井雅晴氏は、恵信尼様は父親の三善為則に連れられて法然上人の所に行ったはずだと言っている。そうだとしたら、三善為則に関する動画が有ってもいい」

昭雄「で、どうすればいいの?」

眞田「これから、今井雅晴氏の動画を全て見て、三善為則についての動画があるのかを調べる」

昭雄「全て?」

眞田「ははは。全てとは言ったけれど、最初の部分だけ見て関係ないと思えば次の動画に移ればいい」

昭雄「分かった。手分けしてやろう。久美子さん」

と、昭雄さんが、久美子さんをみると、スマホに何やら夢中の様子である。

昭雄「久美子さん。何見てるの?」

久美子「今、12番の後鳥羽上皇の動画よ。11番までは三善為則は出てこなかったわ。昭雄さん、13番吉水草庵を調べて。眞田さんは14番の流刑地越後で知り合った人々よ」

昭雄「わあ~、久美子さん、ハエ~」

久美子「ほら、見っけ!」

昭雄「もう、見つけたの?」

久美子「丁度、9分の所、ちょっと待ってね。正確に書きとめるわ」

久美子さん、何度も動画を再生し直しながらメモ帳に文章化している。

昭雄「私も見つけたよ。9分の所に」

久美子「昭雄さん、正確に文章にして!」

もう、眞田だけが置いてけぼりの状態である。

 

久美子さんが書きとった今井雅晴氏の言った言葉は

 

【その頃の流罪というのは本人にどこに流してほしいか聞くんですね。(中略)越後の国は親鸞聖人の奥さんの恵信尼様のご実家の三善家の領地が有りますのでまあそこに行けば安心だということで「そこに流してください」「よし」ということで後鳥羽上皇は親鸞聖人をそこへ流した。】

 

そして、昭雄さんが書きとった今井雅晴氏の言った言葉は

 

【親鸞聖人は奥様の出身の三善家、ただ、その当時は夫の ”通い婚” ですので三善為則が通った結婚相手の家の貴族の人達と親鸞聖人は付き合ったと考えられます。恵信尼様はそこで生まれたわけですので だからそういう点で行けば、今日と違って、妻の実家そのまた実家みたいな形で続いていった】 

 

だった。

昭雄さんの文章を見て久美子さんは

久美子「何? 又、”通い婚” なの? 1番で ”通い婚” の説明が有って、18番でも説明が有って、13番でも ”通い婚” だ・・・」

そうこうしているうちに、眞田も動画を見終わったようだ。

眞田「最後まで見たけど、他にはなさそうだよ。それで、何か収穫は有ったの?」

久美子「うん。12番では、今井雅晴氏は、親鸞が越後に流刑になる前に、ふたりは結婚していると言っているわ。『親鸞聖人の奥さんの恵信尼』 だと・・・。ただ、『恵信尼様のご実家の三善家の領地が越後に有る』 というのが気に食わない」

昭雄「何で?」

久美子「恵信尼様が三善為則の子供であっても、 ”通い婚” の場合は女親の家が実家じゃないのかなあ? 恵信尼様の実家は、父親の三善家ではなく、母親の方の実家よ。それで、『実家が三善家』 というのが気になるのよ」

眞田「そう言われてみると、成程、不自然だね」

久美子「それに、親鸞聖人にしても、恵信尼様の実家が越後に有るから越後に行きたいと言ったなんて、主体性が無さ過ぎなあい? 私の親鸞聖人のイメージじゃない」

眞田「そうだよね。他は?」

久美子「そんなところかな? 昭雄さんの方は?」

昭雄「良く分からない。『親鸞聖人が吉水草庵で出会った人々』 という題目でのお話だよ。眞田さん、分かる?」

眞田「う~ん、少しややこしいね。確か、今井雅晴氏によると、法然上人の所に、三善為則と娘の恵信尼が行って、その後、恵信尼様は法然上人門下に入ったんだよね。一回で入門できるわけがないので、何回も法然上人の法話を聞きに行っている筈だ」

久美子「誰が? 恵信尼様?」

眞田「最初、法然上人の所に10代の娘が行けるわけがないので、三善為則だろうね。為則が何回か法然上人の許に通って、その内、娘の恵信尼様を連れて行った」

久美子「でも、三善為則は越後担当の役人だよ。越後に行っていたら、そんなに頻繁に通えないわ」

眞田「いやいや、今井正晴氏説によると、三善為則は越後介。越後介は越後国に行かなくてもよい役職だよ。だから、三善為則が、恵信尼様を連れて行った後は、恵信尼様ひとりで通った・・・」

久美子「成程。恵信尼様は、京に住んでいたので、いつでも法然上人の所に通えたと考えられるのね」

眞田「親鸞聖人が、比叡山を降りて来たのが29歳、恵信尼様は20歳、法然上人の法話の会が行われる。流刑が36歳の時だから、6年間位の間にふたりは知りあったことになる。でも、合コンじゃあるまいし、直ぐに知り合うなんて不可能に近い」

昭雄「広いお堂の中で法然上人が奥に座り、門下生は全員法然上人の方を向いていて、門弟はお互い誰とも顔を合わさない・・・か・・・」

眞田「それで、今井雅晴氏は、 『親鸞聖人が恵信尼様と会う前提として、恵信尼様の母親の実家の方で身分の高い貴族と最初は顔見知りとなったのだ』 と動画で説明しているんじゃないかな」

久美子「まだ、良く理解できないわ」

眞田「つまりね、今井雅晴氏は、 『恵信尼様は高貴な貴族の娘』 だと理解しているんだよ。法然上人の法話を理解できるほどの教養を身につけていたから。そして、 ”通い婚” の時代だから、三善為則はその高貴な身分の貴族の娘の所に通い恵信尼様が生まれる。恵信尼様が育った家、つまり、恵信尼様の実家はその高貴な貴族の家なんだよ。つまり、恵信尼様を生んだ母親も又、こ゚の高貴な貴族の家で育ったんだ。 ”通い婚” というのは、男性側は、姓名を変えない代わりに女性側も又姓名は変えない。『今日と違って、妻の実家そのまた実家みたいな形で続いていった』 というのはそのような意味だと思うよ」

久美子「となると、三善為則家は、普通の貴族?」

眞田「今井雅晴氏は、そんな風に思ってる気がするなあ。つまり、娘が生まれても絶対に父親の家には行かない筈だと。父親の家は三善家だよ。それが ”通い婚” なんだと。でも、一緒に越後に行ってしまった。この矛盾は今井雅晴氏が動画の中で認めている」

昭雄「今井雅晴氏にしてみれば、三善為則なんて、遠い越後を任された身分の低い役人という認識なんだな。きっと」

眞田「三善為則が中央官人だとすると、そのような結果になってしまう・・・。と、私が言っているのじゃなくて、今井雅晴氏が言っているんだよ。間違えないでね」

久美子「そして、恵信尼様が親鸞聖人と一緒に越後の三善為則の屋敷に行ったのは、 ”通い婚” のルールに反するともね」

眞田「話をちょっと変えるけど、今井雅晴氏の動画を見ていてね『・・・と思います』 というのと、『・・・の記録があります』 との2種類が有ることに気付いた。今井雅晴氏のことだから、『思います』 は 『絶対そうに違いない』 という意味だと解釈して良いと私は思うんだ。例えば 『恵信尼様と親鸞聖人は、親鸞聖人が比叡山を降りて法然に会い、吉水草庵での100日間の間に出会ったと思います』 とか、また、『親鸞聖人は、恵信尼様の所に通い、結婚したと思います』 など、これは、『記録はないけれど、そうに違いないと私は思っています』 という意味に捉えればいいという意味・・・」

昭雄「曖昧な部分は 『思う』 なんだね」

久美子「ねえ、その ”吉水草庵” て何?」

眞田「法然上人の主催する勉強会みたいなものじゃないかな」

久美子「そこで、ふたりは知り合ったの?」

眞田「今井雅晴氏はそのようにおっしゃった」

久美子「それは、記録、それとも、思う?」

眞田「思う、だったと思う」

昭雄「法然の勉強会って何人くらい集まるのかなあ? 門弟は300人位いたと何かで読んだ記憶が・・・」

眞田「それについては、草庵と言っているから、狭い部屋。そこに、法然上人のごく限られた選抜された門弟だけが集められた」

久美子「で、何人位なの?」

眞田「多くて20名がいいところかな?」

久美子「たった20人位なの? それなら、知り合えるわあ」

昭雄「20名の中に20歳の女性は恵信尼ただ一人。聡明で気品が備わっていて・・・か。そりゃ、私だって・・・」

久美子「あらいやらしい」

昭雄「いやいや、真っ先に気付くということですよ」

久美子「ごめん。私、いやらしいこと想像しちゃった」

昭雄「そんな、重要な勉強会に恵信尼様がいたということは、法然上人の弟子の中でもずば抜けていたということなんだよね。凄い人だね。恵信尼様という人は・・・」

久美子「ところで恵信尼様は、普段は京都で何をしていたの?」

眞田「恵信尼様は、『後鳥羽天皇の中宮任子様に仕えていた』 という記録がある。と今井雅晴氏は言っていたような・・・」

久美子「それは、 ”不思議板倉郷” の7ページにも書いてあったわよ。任子様にお仕えしていたというのは、記録があるのね・・・」

眞田「話を元に戻しませんか?」

久美子「私達なんの話をしていたっけ?」

眞田「恵信尼様は、越後で生まれた。三善為則は越後板倉の役人だった」

昭雄「そうそう。しかし、久美子さんが見つけた動画は、三善為則は京の官僚だった」

 

 

第十章 久美子さん、恵信尼になる

 

久美子「それで・・・これから、どうするの?」

眞田「この三善為則は越後板倉の役人だったという仮説が正しいかどうか、これから、検証を始める」

久美子「始めから?」

昭雄「どうすればいいの?」

眞田「 ”頚城文化58号” で大場先生が年表を作って下さってる。ここ。1182年親鸞10歳、恵信尼1歳と。次の年表は25年後の、1207年、親鸞35歳、恵信尼26歳と書かれている。この空白の25年間を埋めていく」

久美子「で、どうすればいいの?」

眞田「うーん。久美子さんには、恵信尼様になりきって貰いたい」

久美子「恵信尼様に? 何で、そんな突拍子もないことを考えるのよ」

眞田「ここにいる女性は貴女だけ。女の気持ちは我々男性にはとても理解できない」

昭雄「気品あふれる賢く若い女性だよね。こりゃ、私には絶対に無理だわ」

眞田「昭雄さんには、周囲の何人かの男性役だ。法然上人、親鸞聖人、三善為則、九条兼実など。私も一緒に考えるから・・・」

昭雄「自分はこう思う、でいいんだよね。坊主は坊主らしく、官僚は官僚らしくか・・・。OK。面白くなってきたぞ」

かくして、ど素人3名の奇想天外な謎解きゲームが、このように始まったのである。

 

第十一章 久美子恵信尼、京の兼実家に修業に出る

 

眞田「それじゃ、改めて、謎解きを開始します。いいね」

昭雄「はい」

眞田「恵信尼様誕生の頃から。西暦1282年、恵信尼は板倉の役人三善為則の子として生まれる。為則はこの5年前に越後板倉の役人として越中三善家から選抜されてやって来た。為則は三島義教さんによると二代目と称されている。一代目の名前は不詳であるが、50年年間役人としての職務を立派に務めあげている。板倉は天皇直轄領で有り、直属の上司は九条兼実であった。このような経緯により、二代目為則もまた九条兼実からの厚い信頼をかち得ていた。ここまではいいよね」

ふたりは、これから何が起こるのか、今は頷くしかない。

眞田「二代目為則が当主の三善家に生まれた子は、女の子であった。幼少の頃から、その賢さは他に類を見なかった」

久美子「賢い子って、本当? 事実なの?」

眞田「私の推測です。何か、異論でもある?」

久美子「賢い子供だったというのは、間違いないわ。私も想像だけれど・・・」

眞田「久美子さん。それでいいよ。その調子!」

眞田「そこで、三善為則と名前不詳の奥様は、この子に、もっと教養を身につけさせるため、京の都に修業に出すことにした」

昭雄「若い頃、京の都にいたという記録があるからこれも間違いない」

眞田「さ~て、どこに修業に出したか? 昭雄さんの出番だよ」

昭雄「京の都の知り合いの所だね。可能性の有るのは、京の都の本家三善家か直属上司の九条兼実家だな」

眞田「さて、どっち?」

昭雄「三善家と九条兼実家とでは格は明らかに九条家が上。兼実は当時関白まで勤めている。私が為則ならこれはもう九条兼実家に決まり」

久美子「いいぞ。九条昭雄殿」

眞田「ははは。続けるよ。為則は京に行った折、兼実に会い、娘を預かって育ててくれるように依頼する」

昭雄「取り敢えず、その娘に会ってから引き受けるか否か決めましょうぞ、為則殿」

眞田「数か月後、為則は恵信を伴って、兼実に面会する」

昭雄「おう、為則の申す通り、賢い娘さんじゃ。私が責任を持ってお預かりいたしましょう」

久美子「お願いいたします」

眞田「このような経緯で、恵信は九条家に下宿することになり、九条屋敷で行儀作法、読み書き算盤等の高い教養を身につけた」

昭雄「恵信よ、よくぞここまで勉学に励んだな。もう、何処に出しても恥ずかしゅうないわ。後鳥羽天皇の中宮任子様のお世話係として仕えてみないか」

久美子「有難うございます。兼実様」

眞田「こうして、恵信は、中宮任子様にお仕えするようになりました」

久美子「ちょっと待って。何故、天皇のおひざ元に行くのよ? 最初から中宮任子様にお仕えなんて、早過ぎなあい? 不自然よ!」

眞田「兼実は関白なんだよ。1185年から1196年の約10年間関白として努めている。京の都の三善家ではこのような展開には絶対にならない。昭雄さんの選択、大正解!」

久美子「でも、やはり、不自然さは残るわ。その後、恵信はどうなるの?」

眞田「1196年、兼実に ”関白停止の政変” が起き、政界を引退せざるを得なくなる。そして、1202年、法然上人に帰依して出家し名を入道圓証となった」

久美子「1196年て、恵信はまだ16歳。それで、恵信はどうなるの?」

眞田「三島義教さんの ”中世の越後三善氏” では、ここまでしか書かれていない。だから・・・。昭雄さん、兼実の ”関白停止の政変” をネットで調べてもらえませんか?」

昭雄「九条兼実をWikipediaで調べると、それは、 ”建久七年の政変” というらしい。兼実は厳格過ぎて院内外から反発を受けるようになったそうだ。その内、後鳥羽天皇とも対立するようになった。それで、関白の地位を追われることになった」

久美子「中宮任子様のお世話係だった私はどうなっちゃうの? 失業? やだ~」

昭雄「ちょっと待って! ”中宮任子” で検索・・・と。何々? これは驚き。成程、そういうことか・・・」

久美子「昭雄殿、何をぶつぶつ言ってるの?」

昭雄「久美子さん。中宮任子様のお父上は兼実だ」

久美子「えっ、えっ。それ本当なの。兼実が自分の娘を中宮にして、そのお世話を恵信に任せたというの?」

昭雄「皇子が生まれなかった。それで、任子様は中宮を追われた」

久美子「天皇の皇子が生まれなかったからお役御免なのか。そりゃ、兼実もがっかりするわね。そうそう、今は、兼実なんてどうでもいいのよ。私、恵信はどうなったのよ」

昭雄「1200年、任子様は宜秋門院となり、1201年法然聖人の下で出家した・・・。1200年は恵信19歳・・・出家した時は恵信20歳だ」

眞田「久美子恵信尼様、貴方なら・・・どうする」

久美子「えっ、私・・・。任子様が中宮でなくなっても、お世話係は続けるわ。任子様の父親は恩義の有る兼実だもの。任子様を放っておける訳ありませんわ」

眞田「いつまで?」

久美子「いつまでって? う~ん。任子様が生きている限りよ。いつまでも」

眞田「任子様は、法然上人の下で仏門に入られた」

久美子「じゃあ、私も、お世話するために出家するわ」

昭雄「結論ハエー」

眞田「久美子恵信尼様のお気持ちは分からなくもないけど、この展開には無理がある」

久美子「あら?」

眞田「親鸞聖人が比叡山を下りたのが1201年。この時、恵信は20歳。この年より前に、恵信は法然上人の門下に入っている」

久美子「任子様が出家するより前に、恵信は法然上人のお弟子さんになったの?」

眞田「もうひとつ、重要な点。任子様の出家は、ご自身が俗世間から逃れるため。念仏を唱えて、極楽浄土に導かれるため。恵信の場合、法然上人のお弟子さんになるという意味は、人々の悩みを聞いて、人々を救う為で、自分の為じゃない。志(こころざし)が全く違う」

昭雄「任子様のお世話は、ふたりが出家しようがしまいがあまり関係ないんじゃないのかなあ」

久美子「分かりました。前言撤回致します。私の強い意志で、入門を志願致しました。勿論、父為則にも兼実様にも同意を得ております。最初、父と一緒に法然上人の法話を聞いたのがきっかけです。その法話に感銘を受け悩みに悩んだ結果、入門することを決心致しました。兼実様にも賛同していただきました。任子様の御出家とは直接関係ありません」

眞田「おそらく、そういうことだったんだろうね」

昭雄「当時は、肉食妻帯禁止だよ。女性だって同じ、恵信は、結婚して子を産むことは、弟子になることで綺麗さっぱり諦めた」

久美子「そんな俗っぽいことなんて、これっぽっちも考えなかったわよ」

眞田「ここまでで、何か、矛盾していること無いかな?」

昭雄「恵信がここまで高い教養を身につけていたということが分かった。この若さでだ。この才能を見い出したのは、兼実であり法然上人だ」

眞田「父親の為則も偉いよね。京に単身で修業に出したんだもの」

久美子「勿体ない昭雄殿と眞田殿のお言葉。有難うございます」

眞田「ははは。続けるよ」

 

第十二章 吉水草案で、恵信、親鸞と出会う

 

久美子「次は、な~に?」

眞田「親鸞聖人が比叡山延暦寺を下りてきました。そして、法然上人の所に行きました。そこには、既にお弟子さんになった恵信尼様がおります。どこかで、親鸞聖人と恵信尼様は出会うことになります。今井雅晴氏は、出会った場所は ”吉水草庵” だと言っています。さて、出会ったふたりは・・・。どのような展開に?」

久美子「恋愛感情が芽生えたかどうかってことでしょ」

昭雄「こりゃ、難しいぞ」

眞田「このおふたりの恋愛については、記録や史料が残っていることは絶対に有りませんよ。心の奥の心情の問題なんですから」

久美子「分かったわ。ふたりの仲がどこまで進展したかってことを想像するのね」

眞田「そうです」

昭雄「ひとつ教えて下さい。恵信尼様は法然上人のお弟子さんになった。そのお弟子さんになった恵信尼はどこに住んでいたの? 修業する場所といえば、例えば比叡山に籠るとかが一般的だと思う。ところが、今井雅晴氏は、山を下りて来た親鸞聖人と恵信尼様は ”吉水草庵” で出会ったいう」

久美子「私の想像では任子様のお世話をしながら、修業していたんだと思うわ。修業は、日々念仏を唱えること。法然上人の教えや教典を勉学研究すること。更に法然上人の所に通って法話を聞くこと。その合間に、任子様のお悩みを聞いてあげること。これも修行の内かな」

昭雄「炊事・洗濯・掃除は?」

眞田「炊事・洗濯・掃除は貴族の娘はやらない。恵信尼様の仕事ではない」

昭雄「それにしても、忙しい毎日だったんだね」

久美子「任子様のお悩みを聞いてあげる場所というと、中宮を退去したというから、多分、実家の兼実の屋敷のどこかだよね」

眞田「親鸞聖人は若い頃、兼実の弟の慈円の指導を受けたというのは知ってる?」

久美子「あら、そうなの? だったら、親鸞聖人は兼実の屋敷の出入りは自由だったんじゃな~い」

昭雄「親鸞聖人と兼実は慈円を通して充分知り合っていたのか・・・」

久美子「でも、昼間の出入りは自由だったと思うけれど、夜はダメだよね」

昭雄「兼実は、厳格な性分。三善為則から大切な娘を預かった。恵信尼様には娘の任子の世話をして貰っている。任子が悩みを打ち明けるとしたら、夜中だ」

眞田「つまり、久美子さんと昭雄さんの意見は ”通い婚” まで進展しなかったというんだね」

久美子「あくまで、私の希望よ! だけど、今井雅晴氏は、親鸞聖人と恵信尼様は結婚までしたというし。昭雄さん、この時代、結婚したということの意味は何だと思う?」

昭雄「???」

久美子「現代では、婚姻届けが結婚したという証拠でしょ。当時は、そんな制度そのものはなかった。それに、男どもはあっちこっちで女の所に通う。厳格な性格の兼実さんだって、酷いのよ。ほら」

久美子さんは、スマホで兼実を検索し昭雄さんに見るように言った。

そこには次のようになっていた。

 

  妻  藤原兼子(藤原季行の娘)

     藤原顕輔または藤原頼輔の娘、

     八条院三位局(高階盛章の娘)

  子  良通、良経、任子、良円、良平、良快、

     良輔、良尋、良海、良恵、玉日

 

久美子「ほら、3人も奥さんがいるのよ」

昭雄「羨ましい」

久美子「もう、真面目に考えてよ。昭雄さん」

眞田「現代の常識から考えると、本当に不謹慎だよね。でも、これが当時の風習で有り、一般的であった。なにも怒るような話ではないと思うよ」

久美子「それじゃ、眞田さんは、多重婚を認めるの?」

眞田「いやいや、この時代、結婚というものがそもそも無かった。妻は、姓名を変えていないし、子供が生まれても、父親と一緒に生活するときも有ればしない場合もあった。子供は妻の実家で育てられるから何も問題は生じなかった」

久美子「ふ~ん、そうか。眞田さん、この問題はスルーしない? 恵信尼様が流刑前の親鸞聖人と結婚しようがしまいが、もうどっちでも良くなっちゃった」

昭雄「ほんとにそれでいいの? 本心は?」

久美子「本心は・・・。ふたりは信頼と尊敬で繋がっていた。そして、京の都にいる間は ”通い婚” までにはいかなかった」

眞田「久美子さん、取り敢えずそれでいこうよ。不都合なことが有ればすぐ撤回すればいい」

久美子「分かったわ。次に進めようか? 次はな~に?」

 

 

第十三章 ”建永の法難” と久美子恵信尼

 

眞田「 ”建永の法難” だ」

久美子「後鳥羽上皇が怒り狂ったという事件ね。この事件で、法然上人と親鸞聖人は流刑になった・・・」

眞田「前に簡単に説明したけど、詳しく説明した方がいい?」

久美子「その事件のことは、概略頭に入っているから、再説明はいらないわ。それより、親鸞聖人と恵信尼様の事が少しづつ分かってきて別の疑問が涌いてきた・・・」

眞田「な~に?」

久美子「直接、事件を起こした僧侶は死罪になった。これは分かるのよ。でも、直接関係の無い法然上人と親鸞聖人とその他の人まで、何故罪に問われるの?」

昭雄「それは、組織の連帯責任じゃないかな」

久美子「そのことは、理解してるわよ。法然上人はともかく、親鸞聖人は事件が発生した直後は死罪刑に該当するとなっていた・・・。結局、流刑になったけども・・・」

眞田「死罪刑から流刑になったことは事実みたいだよ。Wikipediaによると4名は死罪。8名は流刑になっだそうだ」

久美子「それは結果でしょ。私が疑問に思っているのは、罪人の人数はWikipediaの人数を信ずるとしてよ。法然上人を含めて、12名で区切った。13番目の人は無罪になった。これって、何時、誰が決めたの? いい。よく考えてよ。恵信尼様は ”吉水草庵” に招かれる程の地位を確立していた。親鸞聖人と吉水草庵で出会ったというからこれは間違いない。狭い草庵に入れる人数はせいぜい20名だったわよね。例えば、法然上人の弟子としての恵信尼の地位が真ん中あたりの10番目だとしたら、確実に重罪人になってしまうわ。21番目だったしてもよ。罪に問われるか否かなんて事件発生直後は誰にも分からない」

昭雄「でも、恵信尼様は罪に問われなかった。それでいいんじゃなあいの?」

久美子「まあ、九条昭雄殿のお言葉とは思えませんわ。これは、恵信尼様の最大の危機なのよ。法然上人のお弟子さんになったということだけで罪人になっちゃうのよ」

昭雄「久美子恵信尼殿、申し訳ない。すっかり、兼実になりきることを失念してしもうた」

久美子「眞田さん、私の次の質問に答えて! 分かる範囲でいいから」

眞田「何でもどうぞ」

久美子「後鳥羽上皇が帰京して事件を知った。でも、上皇は『おのれ、死罪にしてくれようぞ』と叫んだとしても、死刑執行人にはなれないわ。誰か担当者がいるはずよ。誰? 誰なの?」

眞田「ちょっと待って。三島さんの本の中にそれらしいことが・・・」

久美子「昭雄さん、上皇のこの様子は兼実の耳に入ってくると思う?」

昭雄「鹿ケ谷での事件は、忽ち噂として京中に広まった筈。当然、兼実の耳に届いていたと思うよ」

久美子「じゃあ、関白兼実さんはその噂を聞いてどのような行動を起こすか、九条昭雄殿、考えてみて」

眞田「久美子さん、三島義教さんの本の中では、『年の暮れに上皇が帰京して、留守中に無断で興行に参加した小御所の女房らの不詳事件を耳にした。これが、上皇の逆鱗に降れ、院専断の態勢の下にあった当時、院の激怒を招いて関係者の厳罰と念仏停止の厳罰が命ぜられた』と書いてあるよ」

久美子「上皇は、激怒して厳罰を命じたというのね。誰に?」

眞田「続きがある。『院の突然の厳命を受けた院別当参議長房は、翌建永2年の年頭にかけて処分の渦に巻き込まれ、法然を擁護したい主入道圓証の軽減具申を念頭に置き、厳罰を主張する土御門公卿派と宥和に止めたい九条派公卿との硬軟両様の処断案で揺れ動き、非公開の処断案策定に密々苦渋の対応を迫られることになった』とある。入道圓証とは兼実だよ」

久美子「別当参議長房って誰?」

眞田「ああ。『藤原長房は、勧修寺流藤原氏の光長の 一男で、為康が記した【往生人為隆】の曽孫にあたる』 と書いている」 

久美子「えっ、為康って、あの三善為康なの? そして、長房は藤原家」

昭雄「ということは、兼実には、噂だけではなく、政権の中枢からの情報も逐一入ってきたというのか」

久美子「九条昭雄殿。何を呑気に感心しているのよ。私をどうしてくれるのよ」

眞田「久美子恵信尼殿!」

久美子「は、は、はいっ」

眞田「その情報は、貴女にも、世間の噂、法然上人、兼実から入ってきた筈だ。久美子恵信尼はどう行動するの?」

久美子「えっ。私は・・・。私は・・・。逃げも隠れも致しません。法然上人、親鸞聖人と共にお上のお沙汰を待ちます」

昭雄「いやいや、それでは困る。為則殿に申し訳ない。任子からも 『恵信尼だけは何とかして欲しい』 と言われている。さあて、どうしたものかの~?」

久美子「まあ、情けないお言葉。九条昭雄殿は関白までおやりになったのよ。入道圓証になったとしても、実権はまだ残ってるのよ」

昭雄「久美子さん、あまり急かさないで! 兼実に成りきることは大変なことなんだから。お水、飲んできていい?」

眞田「久美子さん、面白い展開になってきたね。今まで、誰も想像すらしていないよ。恵信尼様も ”建永の法難” の渦の中に巻き込まれた可能性が有力だなんて・・・」

久美子「でも、必然のような気がするのよね。恵信尼の弟弟子の親鸞聖人は最初の罪名は死罪でしょ。恵信尼は、親鸞聖人の姉弟子だよ。組織で責任を取らされるんでしょ。当然、恵信尼様も罪人の対象になるわ。もしかしたら恵信尼も死罪よ。死罪・・・」

そこへ、昭雄さんが台所からコップを持って帰ってきた。

そして、コップの水を一気に飲み干して座った。

昭雄「覚悟を決めましたぞ!」

久美子「ややっ!」

昭雄「恵信尼には、京の都から即刻消えていただく!」

久美子「何と!」

昭雄「行方不明となっていただく!」

久美子「嫌でござりまする!」

昭雄「何を言うか。直ぐに支度をせい。行先は越後だ。為則の所で暫し隠れておれ! これは命令じゃ。道案内人にワシの部下ふたりつける。明日未明に出立じゃ!」

久美子「親鸞様にご挨拶してからではいけませぬか?」

昭雄「親鸞にも、恵信尼の行く先を言ってはならぬ。良いか、お前は行方不明者となるのだ。明日未明、京を出る」

久美子「分かりました。兼実殿の言うが通りに従います」

眞田「流石、九条昭雄殿。事件直後、恵信尼様が、行方不明者・・・か。越後に向かった・・・とは。これは大いに可能性が有ると思うな」

久美子「私の実家が越後だと知るものはわずか・・・。私は、京の高貴な公卿の出身・・・。三善為則も京の官僚・・・。と世間様は思っている・・・」

眞田「九条昭雄殿!」

昭雄「は、はっ!」

眞田「恵信尼と親鸞がお互いに意識し合っていることは、門弟の間では噂になっておるぞ。間違いないか?」

昭雄「多分・・・その通りかと・・・」

眞田「親鸞が恵信尼をどこかに隠したと疑うものが出たらどうなる。そうなれば、被告人隠蔽の罪じゃな。親鸞の罪が更に重くなるぞ」

昭雄「それは困る。ワシは親鸞も助けたい。う~ん」

久美子「お願い! 九条昭雄殿。どうにかして。親鸞様を助けて! 私はどうなってもいい」

昭雄「う~ん、そうじゃ。ワシは決めたぞ。久美子恵信尼殿。怒るでないぞ!」

久美子「決してそのようなことは・・・」

昭雄「親鸞は其方に内密で好いたお人がいる。其方なんぞ何とも思っていないわ」

久美子「な、な、何と!」

昭雄「そして、子供までいる」

久美子「そ、そ、それは、本当か?」

昭雄「その子の名前は、 ”印信” という」

久美子「 ”印信” とな!」

昭雄「ワシはこのことを、別当参議長房に報告する。記録として正式に残す。どうじゃ、久美子恵信尼殿」

久美子「何と、親鸞様が私に隠れて浮気とは嘆かわしい。嘘だと分かってるけれど。よくもまあ、ぬけぬけとそんな出鱈目の作り話を・・・。九条昭雄殿、もしや、真実ではあるまいな?」

昭雄「出鱈目じゃない。ここに、れっきとした証拠がある」

久美子「何! 証拠だと?」

昭雄「久美子さん。 ”不思議板倉郷” 12ページのことで思いついたんだよ。ほら、ここ。親鸞には7人の子供がいる。恵信尼様の子供は、6人だ。ひとり合わない。そして、長男の名は ”印信” という」

久美子「あら、まあ、本当だ! 本願寺系図と日野一流系図のどちらも親鸞の子供は7人だ。長男はどちらも ”印信” という名前になっている」

昭雄「久美子さん。※を読んでごらん」

久美子「 『架空の人物説有力』 あっ」

昭雄「兼実は親鸞と恵信尼様を同時に助けるために、”親鸞浮気説” を記録に残した・・・。この企みは大成功だった。今も尚、”親鸞浮気説” を信ずる人がいるからね・・・」

久美子「恵信尼ミステリーの正体のひとつがこれなのか?」

昭雄「久美子恵信尼殿!」

久美子「は、はっ・・・」

昭雄「もひとつ、厄介なことがあるぞ」

久美子「ややっ、次は、何か?」

昭雄「恵信尼は行方知れずとしたが、恵信尼が越後板倉の役人三善為則の娘であることを知っているものは何人もいる・・・」

久美子「うむ・・・。法然上人様は知っている。兼実殿の家族も知っている。京の三善家も知っている。門弟の何人かも知っている・・・」

昭雄「もし、恵信尼が三善家の娘であることが世間にばれたら・・・。三善為則殿に迷惑がかかる」

久美子「と同時に、上司の兼実殿にも迷惑がかかる。う~ん。どうしたものかのう。九条昭雄殿? 名案はないか?」

昭雄「口止めしたいが、 『おぬし、ご存知か?』 と聞くわけにも参らぬ。眞田殿、頼む。助けて下され」

眞田「昭雄さん。今度は、院別当参議長房になって考えたらどう? 長房は処断案策定に苦労したというよ」

久美子「先ずは誰を処断するか・・・か? 事件主催者は現行犯だから長房はそれほど苦労はしない。後は、組織の連帯責任だよね。そうなると組織一覧表が必要だわ。そこには、事件当日のアリバイ、氏名、生年月日、住所、地位、出身地、親の名前等が書かれる。それをもとにそれぞれの処断案が策定される。昭雄長房殿、どうやってその調書を作成する? 恵信尼は行方不明だ。恵信尼の調書作成は誰に聞くの?」

昭雄「恵信尼は九条兼実家で生活していた。こうなったら、兼実殿に聞くしかないわ。恵信尼のことについて眞田兼実殿答えて下され」

眞田「恵信尼の父親の名は、藤原兼房、母親の名は藤原経宗娘だ。この親から、私が幼い娘を預かり育てた」

昭雄「分かり申した。兼実殿」

久美子「あら、世間様はそんな大嘘、許さないわよ」

昭雄「世間に公開なんてしないさ。長房は処断案を作るためだけに使用する。後鳥羽上皇に処断案説明資料としてお見せする・・・」

眞田「長房も恵信尼が三善家の娘だということは知っていたんだろうね」

久美子「ねえ、これって、得知さん説だよ。得知さんは、兼実の偽の記録を見つけたんだ」

昭雄「そうか。三善家と恵信尼が全く関係が無いとするために、兼実は   『恵信尼は藤原家に生まれた』 と記録に残したんだ。記録の信頼性を高めるために、父親と母親の名前まで残した。父親の名は藤原兼房、母親の名は藤原経宗娘とした。この両親から、兼実が幼い娘恵信を預かり育てたと・・・」

眞田「第三案の松金直美氏は、『その子の名は、玉日。剃髪後に恵信尼と名乗った』 となっている」

久美子「きっと、得知案も松金案も史料の出所は同じだわ」

眞田「その恵信尼様は、 ”建永の法難” の発生日前後には行方知らず・・・だ。たとえ、恵信尼に罪名が下されたとしても、当人が行方不明じゃ、どうしようもない。かあ・・・」

久美子「流石、九条兼実、あったまイイ」

眞田「ほんとに、頭脳明晰なお人だったんだね」

この一件は、これで終わりだと思った。しかし、昭雄さんがしきりに首を傾げている。

昭雄「いやいや、何か分からないけど、可笑しいぞ?」

久美子「まあ、今更、何を言い出すの? 九条昭雄殿?」

昭雄「久美子恵信尼殿。兼実のこの偽情報は、処断案作成時の情報として記録に残されたんだよね」

久美子「そうだよ」

昭雄「処断案は、誰にも見せないんだよね」

久美子「刑が、執行されれば偽の記録は闇の中さ。眞田さん、そうだよね」

眞田「ああ」

昭雄「私なら・・・」

久美子「私なら・・・九条昭雄殿なら・・・」

昭雄「刑が執行された後で、偽の情報は全て書き換える。真実に書き換える。後世に誤解を生まないために・・・。頭のいい兼実殿ならそこまで考える筈だ。書き換えをしなかったから、恵信尼ミステリーが、今も尚、存在し、板倉郷の民を悩ませ続けている」

眞田「確かに・・・。う~ん?」

久美子「ねえ、私達、どこかで間違えたっていうことなの? どこまで、遡ればいいの? 最初からやり直しなの? やだ~も~」

昭雄「申し訳ない。久美子恵信尼殿。私が余計なことを言ってしまったばっかりに・・・」

久美子「眞田さん、これまでで何か変なところあった?」

眞田「思いつかないよ。う~ん。 ”建永の法難” まではいいと思うよ。その後のストーリーに・・・何か・・・不都合な・・・。う~ん。ないよなあ・・・」

久美子「九条昭雄殿。どの辺りが可笑しいのよ? 貴方、九条昭雄殿なのよ」

昭雄「そんなこと言ったって、正直に思うがまま言ったのに・・・」

久美子「眞田さん、何とかしてよ」

眞田「私は、これまでの我々の推理に不都合な点はないと思う。ということは、兼実に何か記録を訂正できなかった理由が有ったんじゃないかな? まずはそれを探すのが先決かな?」

久美子「成程。九条昭雄殿。兼実に何が有ったの?」

昭雄「そんな、急に言われても・・・。例えば、兼実も行方不明になったとか。高齢だから認知症になったとか。足を怪我して、長房の所に行けなかったとか・・・。でもそれをどうやって調べたらいいのかが・・・。私には、お手上げ・・・」

眞田「兼実は高齢者だった・・・・・・か。九条昭雄殿、もしかして・・・。ちょっと待ってよ」

眞田は、三島義教氏の ”中世の越後三善氏” を手に取り、パラパラと頁をめくり始めた。

久美子さんと昭雄さんはその様子を無言で見つめている。

眞田が、ふたりに顔を向けニコッと笑った。

久美子「見っけたの?」

昭雄「何?」

眞田「 ”建永の法難” は、建永元年【1206】12月9日に後鳥羽上皇が熊野御幸に出て12月28日に帰京し不祥事を聞いた。翌建永2年【1207】2月後鳥羽上皇に不祥事の断罪を図った案が奏上され、上皇の処断が下った。入道圓証はその直後の4月に入滅した。と書いてあるのを思い出したんだ」

久美子「まあ、兼実殿は、4月に死んじゃったの?」

昭雄「でも、2月から4月では、書き換える時間は十分ある」

眞田「九条昭雄殿。長房が刑の処断方針を上皇に伝えたのが2月。刑の執行が終わるまで時間がかかると思わな~い?」

久美子「ねえ、眞田さん。親鸞聖人が越後への旅に出た日は何月何日なの? 三島義教さんの本のどこかに書いてないの?」

昭雄「流刑の場合は、流刑地に確実に着いたことが確認された日・・・・・・つまり、親鸞聖人を越後にお連れして、その後、帰京して、報告して初めて刑の執行が確認されるというんじゃないのかなあ?」

眞田「三島義教さんの本の中には親鸞聖人の流刑日の記述はない。今井雅晴氏の動画の中には 『2月では雪深い越後への旅は難しい』 と有ったような気がする。そして、越後までの往復に1ヶ月かかるとしたら・・・」

久美子「4月。そうだとしたら、兼実が死ぬ前に情報を書き換えるチャンスはなかった」

昭雄「そうだ。それだよ。兼実は高齢者だった。体調を崩し何日か寝込んだ後息を引き取った。と考えれば、尚更その書き換えの可能日なんぞ殆んどない」

久美子「兼実の亡くなった日は、Wikipediaによると、5日だわ。4月の初めだ。書き換えのチャンスなんて絶対にない。これで、決定だね。これが、恵信尼ミステリーが今尚残る真相だったんだね。九条昭雄殿、やったね」

昭雄「恵信尼は三善為則の家で6人の子供を育てた。ここには、恵信尼の実母がいた。これは、 ”通い婚” の風習そのものだ。ところが、 ”不思議板倉郷” では、6人の子供が全て板倉で育っているから、恵信尼は板倉生まれじゃないか? と主張してるけど、 ”通い婚” で説明しなければ説得力に欠ける。現代なら、板倉に生まれた子供たちは長男はともかくその他は殆んどが故郷を離れ都会に出る」

久美子「これで、恵信尼ミステリーの全てが解明できたと思うけれど、眞田さん、どうかしら?」

眞田「そうだよね。私としては、恵信尼の親と恵信尼の出生地が分かれば解決だと最初は思っていたんだけど。久美子さんのおかげで全ての謎が解けちゃったようだね」

昭雄「久美子恵信尼殿のおかげでね」

久美子「途中から、何かしら不思議な体験をしていた感じだったよ。恵信尼になりきれなんて眞田さんが言うんだもの」

眞田「あははは。ところで、久美子さん、この謎解き誰に読んで欲しい?」

久美子「それは、もう、恵信尼様だよ。そして、親鸞聖人様」

昭雄「恵信尼様は依頼人だよ。もうすでに読んでいるんじゃな~い」

久美子「ああそうか。じゃあ、昭雄さんは?」

昭雄「私は、三善啓昭さんと三島義教さん」

眞田「三善啓昭さんから先ほどメールが入っています。読んでいるって。それで、三善啓昭さんの奥様も大ファンだって」

久美子「あらっ、奥様が・・・? 余程歴史好きなのかも」

眞田「ううん。奥様の出身地が上越市だって」

久美子「まさか、私と同じ板倉区?」

眞田「残念、頚城区でした」

久美子「是非とも感想を聞きたいわね。女性としての・・・」

昭雄「眞田さんは、誰に読ませたいの?」

眞田「そうだよね。 ”不思議板倉郷” を執筆した謎の人物かな?」

久美子「謎の人物? 意味分かんない?」

眞田「 ”不思議板倉郷” を書いた人の名前が不明なんだ。名前が載ってない」

昭雄「えっ?」

早速手に取って調べ出した。

昭雄「本当だ、著者名の無い本、初めて見た!」

久美子「私も。眞田さんが言うまで全く気が付かなかったわ」

眞田「私は直ぐに気が付いたよ」

久美子「何で、眞田さんだけ気付いたの? 教えて?」

眞田「それはね、私だけに気付くような暗号文が載っているからだよ」

昭雄「暗号文? 何処に?」

眞田「この本には、現在生存している人の名前が載っていない。著者名が無いからね」

久美子「うん」

眞田「でもひとりだけ、現存している人の氏名が載っている」

昭雄「ああ、それって眞田さんでしょ。眞田さんの本の紹介でしょ」

眞田「そうです。でも、私の本の題名が間違っている」

久美子「何それ?」

眞田「この本には、製本が終わってから、誤字脱字が発見されたとして、正誤表が挟んであった」

久美子「うん、挟んであったわ」

眞田「その正誤表にもこの間違いを訂正していない」

昭雄「眞田さんの本の紹介の所は読んだけど、間違いには気付かなかったなあ」

眞田「そう。私だけにしか 気付かない。暗号文だから。多分、”不思議板倉郷” の著者は、今も尚、気付いていない」

久美子「何処なの? 暗号文の場所は?」

眞田「ここだよ。 ”猿供養寺” が ”猿供養時” となってる。 ”乙(宝)寺” が ”乙(宝)” となっている。いずれも、 ”寺” の字が消えている。お寺から連想するものといえば、恵信尼と親鸞聖人だよね。私は、この間違いには直ぐに気付いた。本人だからね。そして、考えた。著者は、何故、間違えたのか? 何故、製本後になっても間違いに気付かなかったのか? これは、著者に確かめるべきだと思った。でも、著者名がない。連絡先も載っていない。いたくら文化研究会が発行者になっていて、住所は板倉区戸狩216番地となっているが代表者名が無い。でも、印刷会社の名称と電話番号が書いてあった。そこに電話して、著者を教えてほしいと頼んだ。しかし、印刷会社の人は、著者を教えてくれることを頑なに拒絶した。何か事情があるのだろうと思った。次に、板倉区総合事務所に行った。担当者に著者に連絡を取りたいので教えて欲しいとお願いした。担当者は「分かりました」とは言ったが、その後今の所、何の連絡もない。今は、著者は、わざと間違えたと思っている。私だけにメッセージを送ったのではないかとまで思っている。私に 『恵信尼様の謎を解け!』 とね」

久美子「だから、眞田さんが、読んで欲しい人は、 ”不思議板倉郷” の著者なのね」

眞田「それと、この本に関わった ”いたくら文化研究会” の会員の方もだよ」

久美子「もうひとり。最重要人物、忘れてな~い? 九条昭雄殿」

昭雄「あっ、申し訳ない。九条兼実殿だ」

眞田「それと、今井雅晴氏も。動画で ”通い婚” の丁寧な説明が無ければこの謎解きは永遠に解決できなかった。越後に恵信尼と親鸞聖人が一緒に行ったことは ”通い婚” の風習に反するとの説明が無ければ謎は解けなかった。あの動画の ”通い婚” が謎解きの重要なキーワードだったんだね」

久美子「そうだよねえ。今井雅晴氏のご意見も是非聞きたいわねえ。でも私達、ど素人だから、根拠も何にも無しで結論出しちゃったね」

眞田「そうだよ、我々は、想像で結論を出したんだよ。後の検証は、専門の先生方にお任せしようよ」

昭雄「でも、楽しかったな~。こんな結論になるなんて、最初は夢にも思わなかった」

久美子「あら、私もよ。あらっ、もうこんな時間。帰って、炊事・洗濯・掃除をしなくっちゃ。夫の身の回りのお世話もね。ウフッ」

昭雄「ワァッ。久美子恵信尼様から、もう、本物の久美子さんに変わってる」

眞田「変わり身、ハエー!」

 

               おわり

 

1週間が瞬く間に過ぎた。

久美子さんから携帯に電話が入ってきた。

(今、何してる? ちょっと、いいかな?)

(大丈夫。どうかしたの?)

(先日の、恵信尼様の件で、気になってることがあるんだけど・・・)

(な~に?)

(一度は、納得したんだけども・・・。そのことを考えだしたら、夜も良く寝付かれないの)

(そりゃ、大問題だ。な~に?)

(親鸞聖人のお世話係の件)

(お世話係? お世話係に、まだ、こだわっているの?)

(今さっき、昭雄さんにも確かめたの。『親鸞聖人のお世話係ってどのようなイメージですか?』 って)

(昭雄さんの答えは?)

(身の回りのお世話だって。眞田さんはどうなの?)

(うん。昭雄さんと同じイメージだよ。三島義教さんの本の中でも、身の回りのお世話だって書いてあったよ。違うの? 久美子さんは?)

(ううん。私も、この間までは、同じイメージを抱いていたの・・・。でも・・・)

(でも・・・?)

( ”通い婚” というのは、女性は男性と一緒に住まない。子供は女性の実家で育てられる。たまには、男性の方から女性と一緒に住むことはある。でも、男性の姓は変えない。勿論、女性の姓も変えない。だったわよね)

(そうだよ。それが ”通い婚” の風習だよ)

(それと、”通い婚” の娘は、炊事・洗濯・掃除・料理はやらない。これは、使用人の役割。恵信尼様は、役人つまり官僚である三善家の娘。一方の親鸞聖人は板倉では、屋敷も田圃も畑も小作人まで与えられた)

(そうだよ)

(つまりね。親鸞聖人には、身の回りの世話をする人は使用人として当然いた筈だ・・・。ということは、恵信尼様が親鸞聖人のお世話をする必要なんてこれっぽっちもない)

(成程。成程。久美子さん、それ面白いよ。理論上は、久美子さんの言ってる通りだよ)

(でね。いろいろ考えちゃったんだけど・・・。親鸞聖人にお世話係が何故必要だったんだろうかって・・・)

(???)

(親鸞聖人にお世話係が必要なら、法然上人さんにもいた筈よ。弘法大師やその他の偉いお坊様にも。そんな話聞いたことある?)

(う~ん。無いよなあ)

(でも、お弟子さんなら、周りに大勢いたよね。お弟子さんがお世話をした・・・)

(そうだね)

(日本の伝統の相撲だって、関取になるとお世話をする人がつく・・・)

(うん、うん。付け人だね)

(でも、よく考えると、全て、お世話するのは男なんだよ)

(???)

(もしも、親鸞聖人にお世話をする人が必要だったとしたら、男で十分じゃないかと・・・。女性が、それもよ。官僚の娘がお世話係だなんて、私の頭の中では絶対に有り得ないと・・・)

(うん、うん)

(ねっ。理解していただけたかしら?)

(ああ)

(恵信尼様は法然上人の門下に入った程の頭脳明晰な方だから、彼女には、法然上人から与えられた重要な役目がある。それは、人々の悩みを聞いてあげて、不安を取り除いてあげて、極楽浄土に導びいてあげること。親鸞聖人の身の回りのお世話なんてやってられない。と思った訳。親鸞聖人だって、恵信尼様にお世話係をして貰うなんてきっと望まないわよ)

(うん、うん)

(でもねえ。この考えなんて、今まで誰も主張してないでしょ。だから、悩んじゃうのよねえ。違うのかなあ?)

(いや、いや。案外、正解かも知れないよ)

(今井雅晴氏の動画も見直したのよ)

(ああ)

(今井雅晴氏は、動画の中で 『親鸞聖人が比叡山から下りて来て出会った人は、貴族階級、武士、僧侶達で、一般大衆や農民は対象ではなかった』 と言ってるの)

(その動画は、覚えているよ)

(一般大衆や農民が対象でなかった理由については、『彼等が文字の読み書きができないことが原因だ』 とも言ってる)

(そうだったね)

(そして、 『親鸞聖人が一般大衆や農民からの悩みを聞いて仏の道を教え始めたのは越後からだ』 とも言っているの)

(うん)

(親鸞聖人の説く浄土真宗は、日本最大の仏教宗派で今では一千万人を超えていると不思議板倉郷に書いてあった。その最初の土地が板倉なのよ)

(うん)

(それで私、『親鸞聖人は、板倉に来て、手始めに、自分の屋敷の小作人にどんな悩みを持っているのか聞いてみた』 と考えてみたの)

(うん。うん)

(眞田さん。この場面設定、結果はどうなったと思う?)

( 『小作人達は、日々の農作業で疲れ果て、悩んでいる暇もなかった』 じゃな~い?)

(私も最初は、そう思ったわ。でも、途中から考えが変わった)

(そうじゃなかったの?)

(ええ。親鸞聖人が、京言葉で小作人に尋ねても、小作人達は、親鸞聖人の発する言葉の意味が分からなかった。逆に小作人の方から親鸞聖人に話す言葉も、越後訛が酷く、親鸞聖人には全然理解できなかった。つまり、お互いの会話が全く成り立たなかった。小作人達が文字が読めない書けないということはこんな事態になるのではないかと漸く気付いたの)

(でも、結果的には、親鸞聖人の教えは、越後板倉から始めて、今では最大宗派になったんだよ)

(そうなのよ。それは、間違いのない事実なの。でも、会話が成り立たない。ねえ、会話が成り立たない場合の解決策は何だと思う?)

(小作人等の方が京言葉を理解するのは、絶対に無理。だとすれば、親鸞聖人が地元訛の言葉を覚えるしかない。しかし、それには時間が必要だ)

(どれ位?)

(数か月から数年間)

(それじゃ、教えを広められないわ。他の手立ては?)

(う~ん。待てよ・・・そうか。恵信尼様だ。久美子さん。恵信尼様なんだよね)

(そうなの。恵信尼様は生まれ故郷の越後板倉に帰っていたのよ)

(親鸞聖人が越後に流されて来るまでは、恵信尼様はひとりで仏の心を小作人達に説いた。それが、法然上人から恵信尼様に与えられた使命だ)

(2か月程の後、もう一生会えないと諦めていた親鸞聖人が越後板倉に流されて来た)

(うん)

(再会を喜び合ったふたりは、小作人達に仏の道を説き始める)

(ところが、親鸞聖人の法話は京言葉で小作人には全く通じない)

(その時は、恵信尼様が通訳をする。幼少の頃板倉に住んでいた。京の都にもいた。両方の言葉を自由自在に扱えるのは、越後板倉では恵信尼様しかいない)

(うん)

(恵信尼様が板倉に帰っていなければ、親鸞聖人おひとりでは、布教活動は出来なかった・・・)

(本当に凄い人だね。恵信尼様は・・・法然上人の弟子としての任務を立派に遂行したんだね)

(親鸞聖人の理屈っぽい法話も、頭脳明晰な恵信尼様が噛み砕いて優しく分かり易く伝えたため、瞬く間に大衆や農民に広まった。どう?)

(うん、うん。久美子さん説、すっごく分かり易い。いつも、ふたり一緒に一般大衆や農民の前に姿を現したら、彼等は、身の回りのお世話もしているんだろうなと思うよね。夫婦で、子沢山のことも当然彼等は知っていただろうし・・・。そうか、恵信尼様は ”スーパーウーマン” だったんだ・・・)

(うふふ。これで、スッキリしたわ。今日からぐっすり熟睡できそう。有難う。ではまた)

 

          2回目のおわり

 

 

 

 

読者の皆様へ

 

最後まで ”恵信尼ミステリー” をお読み下さり、有難うございます。

本文中にも、触れておりますが、私が ”恵信尼ミステリー” を書く動機となったいくつかの不思議な偶然がありました。

この不思議な偶然について、詳しく述べてみたいと思います。

 

令和3年3月1日、板倉今昔説話集 ”不思議板倉郷” が出版されます。

令和3年、たけのやまファンクラブが ”土砂災害防止功労賞” を受賞します。

その受賞祝賀会が ”やすらぎ荘” で開催されます。

その時に、たまたま ”やすらぎ荘” に置いてあった ”不思議板倉郷” の冊子を会員の丸山さんが見つけ会員に配布します。

祝賀会が ”やすらぎ荘” で開催されなければ、この冊子が会員や新潟市に住む私に渡ることは無かったのです。

でも、ここまでは、偶然でも何でも有りませんよね。

しかし、ここから、不思議なことが私の周辺に連続して起きるのです。

 

家に帰って、 ”不思議板倉郷” を読んでみると、冊子の中に私の名前が出ています。

つまり、私が10年程前に書いた本の下巻が紹介されていたのです。

まあ、これも不思議でも何でも有りませんよね。

事実ですから・・・。

 

ところが、私の本の題名が何故か間違って書かれています。

正しくは ”猿供養寺物語と乙(宝)寺” のところ、 ”猿供養時物語と乙(宝)” となっているのです。

冊子に正誤表が挟んでありました。

しかし、正誤表には記載されておりません。

そこで、『間違えていますよ”』 と一言、言ってやろうかと思い、”不思議板倉郷” の著者の連絡先を探しました。

ところが、何と、 ”不思議板倉郷” のどこにも著者名が有りません。更に連絡先も書いて有りません。

 

 ”著者名のない本との出会い”・・・これが今回の不思議の序章なのです。

 ”不思議板倉郷” を何度も読み返すと、次第に 『恵信尼公出生にまつわる不思議』 が、名前の無い著者の一番言いたいことだと分かってきます。

 『恵信尼様は板倉の出身だと自分は思うが、違うのか? 誰かこの出生のミステリーを解いてくれる奴はいないのか?』 という悲痛な叫びに似た訴えのようなものを感じたのです。

 

でも、その時は、私が 『恵信尼様出生の謎解き』 にまさか挑戦しようとなんてことなど、これっぽっちも考えてはいませんでした。

 

 

令和4年3月頃、見知らぬ男性が私を訪ねてきます。

彼は、建設資材会社の営業マン。

私の勤務先の応接室でお話を聞きます。

純粋に仕事関係のお話です。

受け取った名刺を見ると、名前は ”三善啓昭” と書いてあります。

打ち合わせが終わって、私が 『三善という苗字は珍しいですね。もしかして、上越の板倉に関係がありませんか?』 と当てずっぽうに彼に聞きます。

”三善” という苗字を目にして、咄嗟に私は、山寺薬師堂の三尊像を思い浮かべたのです。

私は、三尊像の寄進者が ”三善讃阿” と言う名前であることを知っていたのです。

更に、上越市内には、三善という苗字が無いことも知っていました。

しかし、誠に恥ずかしいことに、”恵信尼様の実家が三善家である” ことにはその時は、全く気づいてはいませんでした。

 

『実は、そうなんです・・・』

『えっ、嘘だろう・・・』

『いや、本当なんです・・・』

 

当日は、そこまでで別れます。

数日経って、私のところに、 ”中世の越後三善氏” という本と丁寧な手紙が届きます。

その本の内容は、難解で、私の能力では一度読むだけでは到底理解できません。

しかし、手紙には、当の三善啓昭さんの家は、その本の中には『越後三善家の宗家と書いてある』と言います。

著者の三島義教氏は、『自分の父方の先祖の屋号が ”善八” であり、先祖のことをただひたすらに調べた』と書いてあり、歴史家でも宗教学者でもありません。

そして、ご自分の先祖を調べた結果、 『先祖の恵信尼は板倉生まれ』 と主張するに至ったと書いてありました。

 

 『何だ。この本に、恵信尼様は板倉で生まれたと明確に書いてあるじゃないか。正体不明の不思議板倉郷の著者。知らないのかなあ?』

ここでようやく、正体不明の著者が書いた ”不思議板倉郷” と、恵信尼様の子孫の三島義教さんの ”中世の越後三善氏” が繋がります。

そして、なんと、そのど真ん中に、私と三善啓昭さんがいます。

 

『いやいや。知らない訳無いよな。知っていて、あの ”不思議板倉郷” を書いたとしたら・・・。彼は、なかなかの曲者じゃないか・・・』

 

板倉に ”ゑしんの里記念館” があるのを思い浮かべました。

検索してみました。

 

板倉は 『晩年を過ごした場所』 との説明があります。

しかし、どこにも、『板倉に生まれた』 とは言っていません。

 

ようやく、”謎の本質” が判明してきました。

恵信尼様は板倉で生まれたのが真実であるのに、何故か、『板倉で生まれた』 ことが主張できないでいる。

これが、”恵信尼ミステリー” の本質なんだと・・・。

 

”板倉生まれ” とする、地元の物的資料は残念ながらひとつも有りません。

 

であれば、この謎を解くには、逆に ”京生まれ” を理論的に否定できればいいんだ・・・と。

 

 

これが、私が ”恵信尼ミステリー” を書く動機になったのです。

 

 

下の文は、 ”中世の越後三善氏” の巻頭言の部分です。

三島義教氏の一番主張したいことが書いてありました。

 

〇三善為則は越後国府在庁官人であること。

〇ゑ信は三善為則の娘であること。

〇ゑ信は板倉郷郷司板倉三善氏の生家で育ったこと。

〇娘時代、摂政九条良経の邸宅に奉公したこと。

   ※良経は兼実の次男です。