寺野郷土誌稿を読む

寺野郷の昔々の歴史を綴った『寺野郷土誌稿』を入手しました。

今まで、私の頭の中で霞がかかったようにあやふやだった『たけのやま』周辺の歴史の一端がかなり明らかになってきましたので紹介します。

1.何故、どこにでも在りそうなたけのやま山麓に山寺三千坊ができたのだろうか?

 

最初に、誰もが抱く素朴な疑問です。

「それはね、お寺がいっぱい有ったからだよ」

「いやいや、そもそも、何で、多くのお寺が、たけのやまの麓に集まったのよ」

ファンクラブの会員でも、この単純素朴な疑問に明快に答えることのできる人はいませんでした。

ある会員は「ここが京の都の比叡山に似ていたからだよ」と言いました。

「それって本当なの。比叡山とこの場所の、何がどのように似ているの?」

「えーと・・・・・・、それは・・・・・・、よく分からないけど、小さい頃、爺様から聞いたことがある・・・・・・。お前の所はどうだ」

「うちも、婆様が ”比叡山に似ている” と、よく言っていたよな」

どうやら ”比叡山に似ている” と言うのが、この寺野地区に伝わる古くからの言い伝えであることだけは理解できました。

でも「どこが?」と尋ねても誰も答えられませんでした。

ところが、「寺野郷土誌稿」に最初の疑問文の答えが明確に書いてありました。

 

 

三六代孝徳天皇時代の白雉年間(650~654)に、阿果というお坊様が、加夫呂山の麓に精神的一大楽園を建設した。

 

今から、約1400年も前の出来事だそうです。

今まで聞いたこともない『加夫呂山』という山の名前が出て来ました。

『加夫呂』は『かぶろ』と読みます。

『加夫呂』をネットで調べると、何やら出雲国の熊野大社の神様に関係が有るようです。

皆さん『加夫呂技』で、ネット検索して確認してみて下さい。

『寺野郷土誌稿』を読み進んでいくと、『加夫呂山』は『たけのやま』のことでした。

精神的一大楽園とは、仏教をテーマにしたレジャーランドみたいなものでしょうか。

 

さて、最初の疑問の、何故、加夫呂山の麓にお寺が集まったのか? という理由ですが

 

(原文のまま)山水秀麗四面冷瓏一望田野青々緑をなす加夫呂山の麓に・・・・・・佛法興隆の管長地の開基たり。

 

 

「加夫呂山の麓は、山も水も素晴らしく綺麗であり、その山頂からは、東西南北が見渡せ、青々とした野や田が広がっている」つまり、この寺野郷にある「たけのやまの麓」が、他の地域と大きく異なっている場所であったという意味でしょう。

そして、『こ゚のたけのやまの麓が仏教を広めるための最初の地である』というのです。

又、『加夫呂山は、丈六山又は薬師が峰(嶽)とも称していた』と書いてあります。

しかし、『丈ヶ山』の名称はどこにも見えません。

尚、加夫呂(かぶろ)とは、神聖な、という意味です。

2.華園寺はいつ建立されたのか?

 

山寺三千坊の建設から約60年後の718年に行基というお坊様が頂霊山華園寺を創立した。

 

レジャーランドをここに決めた時から、60年も後に、漸く華園寺が建立されたのだ。

華園寺は管長寺と称しているから、60年間、まともなお寺は無かったに違いない。

3.乙宝寺と猿供養寺の創立年は?

 

天平末年(748前後)に裸形上人というお坊様が、この地に来て、岩窟で修業し、如意山乙宝寺と丈六山猿供養寺を開創した。

 

乙宝寺は、華園寺から更に30年も後でした。

『寺野郷土誌稿』によれば、乙宝寺と猿供養寺は同年の開創となっています。

春に乙宝寺が開創され、都よりお坊様が派遣、乙宝寺でお経を読んでいると毎日猿がやってきて、その内、秋になって猿が来なくなり、お坊さんが近くを探したら、死んでいる猿を発見し、猿の供養の為に裸形上人は同年秋に猿供養寺を開創したと解釈できます。

裸形上人とお坊様は別人です。その理由は、裸形上人は毎日岩窟で修業し、お坊様は毎日乙宝寺で修業しました。これが別人である何よりの証拠です。

又、『寺野郷土誌稿』では、『開創』という漢字を使っています。

『開創』を辞典で調べると『お寺を開いた』と説明されています。

どうやら『お寺を建立した』という意味ではなさそうです。

秋深くなった時、猿が死んだので、年内に猿供養寺を建立するなんてことは豪雪地の山間地ではどう考えても絶対に不可能ですよね。

「猿を供養するお寺を建てましょう。お寺の名前は猿供養寺としましょう」と宣言したくらいでしょう。

後段で『猿供養寺は大きなお寺』とも記されているので、この数年後に大きなお寺の猿供養寺が建設されたのであろうか。

ここまでは、スムーズに納得したが、よくよく考えたら『乙宝寺』も開創であることに気が付いてしまった。

『乙宝寺』も開創という言葉を使っているから、猿が来た年は、乙宝寺の建設もまだ計画段階だけで、『乙宝寺』そのものもまだ建立されていなかったのではないか?と気が付いてしまったのです。

あれこれ悩んだ末に、私が出した最終結論は、やはり、『乙宝寺も、その年、まだ無かった筈だ』だったのです。

しかし、最も古い大日本法華経験記には、越後国の乙寺の僧の所に猿が来たとなっています。

さて、この大きな矛盾をどう解けばいいのでしょうか?

『寺野郷土誌稿』に猿がどこに来たのかが書いてないだろうか?

『寺野郷土誌稿』の中に『猿の話』が載っていないだろうか?

漸く見つけました。

『寺野郷土誌稿』に、私の疑問の答えがズバリ書いてあったのです。

4.「寺野郷土誌稿」の”猿はどこに来たのか”?

 

(原文のまま)猿供養寺村の開発年代は人皇第三十六代孝徳天皇白雉年間なりと伝う。世に云う越後の国、見境郷猿供養寺村の由来を尋ぬれば往昔観世音菩薩堂並に法定寺、法浄寺の二堂あり。この観音堂の聖僧の所に牡牝の二猿毎日の如く来り参詣、経文拝聴、時として木の皮を持参し聖僧より経文書写して貰ふ。其の謝礼として山の芋を捧ぐ。堂僧不審に思ひ居りしに後二猿参詣なき故猿の行衛を尋ねしに山寺地内奥にて岩石の下なる山芋を掘る時俄然岩石墜落その下敷となり憐れ死し居るを発見聖僧は二匹の猿の死体を川の両岸に分葬せり。此由来を以て川の名を猿俣川と称す。尚其の猿を供養したる縁を以て該聖僧の所在地に大寺を建て以て猿供養寺と称せしといふ。

 

 

やはり、思った通り猿が来たのは「乙宝寺」ではありませんでした。

「寺野郷土誌稿」には、「観世音菩薩堂でお経を読んでいる僧の所に来た」と書いてありました。

これで、私の疑問が完全に氷解したのです。

裸形上人が「乙宝寺を造りましょう」と計画した場所(現在の山寺薬師の場所)に、観世音菩薩堂と法定寺のお堂、法浄寺のお堂が既に存在していたのです。

猿はこの観世音菩薩堂にやって来たのです。

そして、「乙宝寺」は数年後この場所に建立されたのです。

「まだ建ってもいない乙宝寺に猿がやって来る訳がない」のです。

猿が来たのは「乙宝寺」ではなく、「観世音菩薩堂」だったのです。

 

 

※注目点1 寺野の言い伝えは『サルが死んで供養の為に猿供養寺を建てた』まで。4つの古典書に共通する40年後の話は一切ありません。

注目点2 2匹の猿はオスとメス。夫婦なのか兄妹なのかまでは不明。少なくとも老猿ではなさそうです。

 

 

5.山寺三千坊とは?

 

三千坊というから、相当大規模な寺院群がこの地に有ったのではと、想像される方がおられると思うが、「寺野郷土誌稿」には明確に山寺三千坊のことが書いてありました。

 

(原文のまま)八十一家を以て山寺三千坊舎と称せしも所謂山寺五山の大寺と外数寺の堂坊に過ぎず。只山寺八十一家の管長寺山寺に在りしによりかく称するなり。

 

五山の大寺と言っても、山寺地区には、地形からして巨大なお寺が建つような平坦地形などありません。従って、大きなお寺と言っても規模は知れたものだったろう。

猿のお話の項でも触れたが、小さなお堂がいくつも有ったらしく、そのお堂を〇〇寺と称していたらしいのです。「数寺の堂坊」がこれに当たります。

6.乙寺とは乙宝寺のことか?乙宝寺は乙寺なのか?

 

何やら禅問答みたいな疑問文ですが、「寺野郷土誌稿」を読んで、「成程!」と思ったことが有ります。今迄は、甲寺・乙寺を兄寺・弟寺とイメージし、華園寺を甲寺、乙宝寺を乙寺と思っていました。

単純に分かりやすく整理してみると・・・・・・。

「我が家に長男が生まれた。生まれた時は長男は兄と呼ばれない。次の年、次男が生まれた。次男が生まれた瞬間、長男は兄と呼ばれ、次男は弟と呼ばれるようになった。次の年、3男が生まれた。その瞬間、長男は兄のままであったが、次男の弟は、兄からは弟で有り、3男からは兄と呼ばれるようになった。次の年、4男が生まれ、3男は4男の兄と呼ばれるようになった」

「何だ、当り前じゃないか」

そうなんです。至極当たり前のことを言っています。

そして、更に物語は続きます。

「兄が突然いなくなった。いなくなった途端、次男は弟と呼ばれなくなった。次いで、次男がいなくなった。いなくなった途端、3男も、弟と呼ばれなくなった」

「なにそれ、当然でしょ?」

そう、当然なんです。

これを、山寺五山のお寺に当てはめてみると。

 

山寺三千坊に最初の寺頂霊山華園寺が建ちました。それから約30年後、如意山乙宝寺が建ち、同年末に丈六山猿供養寺が建ちました。乙宝寺が建った瞬間、華園寺は甲寺(兄寺)となり、乙宝寺は乙寺(弟寺)となりました。

「寺野郷土誌稿」には「甲寺」という表現は一切ありませんが「管長寺」という表現があります。

寺野村東山寺薬師堂について、「寺野郷土誌稿」は

 

(原文のまま)伽藍は概ね平城天皇の御宇大同年間の建立にして支配寺即ち管長寺は最初僧行基の創立せし頂霊山華園寺なりしが後年華園寺直江浦に移るに及び乙宝寺之に代る。

 

つまり、華園寺が無くなったので、乙宝寺が管長寺となった。乙宝寺は弟寺から兄寺となった。

更に、兄寺となった乙宝寺はどうなったのか?

 

文のまま)五山の一乙宝寺は下越に走り(北蒲中条町)

 

乙宝寺がいなくなれば、猿供養寺が今度は管長寺即ち甲寺となるのは必然である。

 

最初の問いの、「乙寺とは乙宝寺のことか?乙宝寺は乙寺なのか?」の答えは、「ある一瞬又は短い期間においてのみ、乙寺は乙宝寺であったし、乙宝寺は乙寺であった」です。

 

 

 

7.上久々野の福因寺が乙寺?

 

(原文のまま)美福院山寺猿行山福因寺と号し、現在建物百二十九坪敷地三百八坪檀家四十八戸にして宇堂の外にあり。当寺院は往古より山寺三千坊の乙寺と称え、真宗大谷派本願寺管下に属し、居村一寺を今日に併営し来る。

 

「乙寺は乙宝寺であり、乙宝寺は乙寺である」と考えていたら「福因寺は乙寺」の謎は解けなかったに違いない。

時代が経過し、山寺五山のうち、華園寺が山を降りて直江浦へ移転し、乙宝寺も中条に移転、猿供養寺は猿供養寺村に残り、四番目、五番目の、天福寺、佛照寺も無くなった。そして、福因寺が上久々野に建った。寺野村のお寺の管長寺は猿供養寺である。福因寺は当然、2番目のお寺、乙寺となったのである。

 

8.猿供養寺はその後どうなったのか?

 

(原文のまま)其の後高倉天皇嘉応巳丑元年加賀国濁世の闘乱を鎮むるため、国司藤原師高山寺五山廃止を沙汰するに及び遂に兵火にかかり猿供養寺炎上す。

 

猿供養寺は、嘉応巳丑元年に焼失したと書かれている。嘉応巳丑元年は1169年である。

前出の福因寺の開基は何時なのかについては、良く分からない。

 

(原文のまま)当寺の開基?

 

となっている。この意味不明な文に続き、浄念という人が行基に師事して丈六山の下の聖窟を修業の道場にしたのが始まりで、福因寺が久々野に移ったのは小松天皇の明徳3年である。又福因寺となったのは、土御門天皇の時代である。と書いてある。

 

9.焼失した猿供養寺はその後どうなったのか?

 

1169年に猿供養寺は焼失した。では、焼失した後、猿供養寺は再建されたのか。それとも、再建されずに現在に至ったのか。

そこで「寺野郷土誌稿」のどこかに猿供養寺のことが書かれていないか探した。

「越後略風土記に」という項目が有り、そこに

 

(原文のまま)・・・・。霜台公に忠勤を励みしがたまたま上杉家の強者北條丹後守と勢力争ひ生じ川中島出陣▢延せし為上杉将士の怨む所となり遂に箕冠山攻撃となる。城主朝▢遂に自刃しその子備前守朝秀▢に関山宝蔵院明神に二通の願文を献じ身の潔白を誓ひしも雲露の如く押寄せたる上杉勢に抗しかね南方孤立の地に陣を布く防戦務めしも敗れ猿供養寺に入り自刃す。

 

上杉家、川中島出陣、となれば、1550年前後である。

猿供養寺が、寺野郷にしかないお寺であることから、明らかに、1169年に焼失した猿供養寺は再建され1550年に現存したことが証明された。

10.丈六山は丈ヶ山か?

 

「寺野郷土誌稿」には、丈六山と丈ヶ山のことが書いてある。しかし不思議なことに、丈六山は丈ヶ山であるとの表現はない。勿論、丈六山は丈ヶ山ではないという表現もない。

 

第1編 寺野村の沿革の第2章には

(原文にまま)加夫呂山(丈六山、又は薬師が峰と称す)

とあり、第2編神社佛閣舊跡第3章舊跡(1)丈ヶ山 では

(原文のまま)疊山峨々として樹木陰森たる所なり。薬師が峰又は加夫呂嶽とも称す。

 

と書いてあるので、ほぼ100%「丈六山は丈ヶ山」であろう。ただ、「丈」の字の由来については

 

神代の昔のお話として、夜星という悪人が民を苦しめていた。大国主命が幾多の神を従えて退治した。その神の中の「白丈の神」が、敗走した夜星を坊け池で討ち取った。

里人は、この山を、丈ヶ山と称し古代は白丈といい、中世は白ヶ岳等といった。

 

私見を加えて、勝手な解釈をするとなれば、

三六代孝徳天皇時代の白雉年間(650~654)の頃は、僧侶や国司が決めた(村人以外という意味である)正式名称である「加夫呂山」あるいは、「丈六山」「薬師が峰」であった。しかし、村の人々は、白丈の神の言い伝えから、「丈ヶ山、白丈、白ヶ岳」等と言ったのではないか。

等が付いているのが少し気になる。丈ヶ山は「じょうがさん」と呼ぶのだろうが、丈を「たけ」と呼ぶ場合、「たけけやま」「たけがやま」となる。現在、村人たちは、「たけのやま」と言っている。 如何か。

11.猿供養寺地すべりの記述はあるのか?人柱伝説は?

 

地すべりについての記述が一か所だけあった。

しかし、人柱伝説についてはない。

 

(原文のまま)尚天禄三年今より二百四十四年前同村内字丸山より姫鶴川通り同村中央にかけて大熊川迄地辷の兆あり。依って大公儀へ出願又今より二百五十二年前天和二年真田伊豆守内惣奉行木村▢右衛門外五名出張御見地の際之を認定せられたる書類は今以て当字区長保管し居れり。

12.”丈ヶ山" の ”丈” の字は、”丈” なのか?

 

またまた、変な疑問文を書いてしまいました。

私の手元にある「寺野郷土誌稿」は、手書きのガリ版刷のものです。

「寺野郷土誌稿」には、何か所も「丈ヶ山」「丈六山」「丈六山猿供養寺」と言う名称が出てきます。

この ”丈” という字を注意深く眺めていて「あれ、これって何?」と思ったのです。

実は、”丈” の字が、”丈” ではないのです。

”丈” の字の右上に ”`” が付いているのです。

例えば、”大” に ”`” が付くと、意味が全く違う、”犬” と言う字になりますよね。

では、”丈” に ”`” が付くと、どのような意味の漢字になるのでしょうか。

辞典でいくら調べても全く分かりません。

更に、調べていくと、「丈額山と丈額山佛照寺」に使われている ”丈” は ”丈” のままです。

明らかに、「寺野郷土誌稿」の著者は、この漢字を確信を持って使い分けています。

”丈” に関して、もっと徹底的に見ていくと・・・・・。

加夫呂山(丈六山、又は薬師が峰と称す)は

加夫呂山(文六山、又は薬師が峰と称す)となっていることを発見しました。

丈六山で ”丈” に ”`” が付かないのはこの文章だけですが、 ”丈” と思ったのは、見間違えで、実は ”文” と言う漢字でした。

 

もう一か所、”丈” と ”丈’” を明確に使い分けている所を見つけました。

神様として書かれた「白丈’の神」が2か所。

山の名前として書かれた「白丈」が1か所です。

 

 

 

これはもう、私の想像の範囲を越えています。

どなたか、分かる方おいでになりませんか?。

「それって、書いた人の癖ではないのか?」

いやいや、そんな安易な解決方法で納得するわけにはいきません。

深い深い意味深な理由がこの漢字一文字にきっと有るはずなんです。

13.たけのやまの呼び名はいくつあるのでしょうか?

 

600mに満たない一見どこにでも有りそうな里山が、これまで述べて来たようにいくつもの名前を持っているということに改めて驚くと同時に、このことだけでも、充分価値が有りそうです。

改めて、私達が ”たけのやま” と呼んでいるこの里山の呼び名を挙げてみます。

「寺野郷土誌稿」からの抜粋です。

 

①加夫呂山

②加夫呂嶽

③文六山

④薬師が峰(峯)

⑤薬師が嶽

⑥丈’ヶ山

⑦丈’六山

⑧白丈

⑨白ヶ岳

⑩丈額山

⑪淨楽山

 

たけのやまは、何と11の名前を持っていました。

 

たけのやまの山麓には「山寺三千坊」としていくつかのお寺が建ちます。

このお寺の「山名」として、このたけのやまの山の名称が使われます。

 

丈’六山猿供養寺

淨楽山猿供養寺

丈額山佛照寺(大額山佛照寺と読める字もある)

 

本当にややこしいですね。

 

「寺野郷土誌稿」を読みながら、改めて思うことは、「この資料の内容の豊かさと素晴らしさ」である。

この種の歴史資料によく見受けられることは、誇張や誇大表現であるが、「寺野郷土誌稿」にはそのようなヶ所は全く見られません。逆に、私には、「寺野郷土誌稿」に書かれていることは、全てが真実であろうとまで思っています。

さて、もうそろそろ、このシリーズ「寺野郷土誌稿を読む」を終わりにしたい。

で、最後の疑問点であるが・・・・

14.”丈ヶ山”にルビをふるとすれば、”たけのやま”か? 

   ”たけのやま”を漢字表記すると”丈ヶ山”か?

 

またまた、変な疑問文を書いてしまいました。

最後だと思って、もう暫くお付き合い下さい。

 

丈ヶ山ファンクラブが発足したのは、平成29年6月24日です。

それまでは「寺野の歴史を語る会」という名称で活動してきたのであるが、「我々が歴史を語るにはちょっと 荷が重たいな」という理由で「これからの老後はたけのやまに登り健康になって長生きしようや」という方向に活動方針を転向したのです。

あの里山を、会員は「たけのやま」と呼び、お互いの会話の中では、何の違和感も生じなかったのです。

ところが、会の名称を「たけのやまファンクラブ」と決めたまではいいが、文字表記をどうするか揉めてしまったのです。

揉めたと言っても、楽しい会話の中での揉め事であるが・・・・。

「地図には ”丈ヶ山” となっているから ”丈ヶ山ファンクラブ” でいいんじゃないの」

「でも、”丈ヶ山” って漢字、正式にはどう読むの?」

「多分、”たけがやま” じゃないかな」

「もしかしたら、”じょうがさん” とも読めるよね」

「でも、でも、”たけのやま” とはとても読めないよね」

「そうだよね」

「じゃー、逆に ”たけのやま” を漢字で書くと、どう書くのかな」

「”たけのやま” は ”たけのやま” さ。漢字では書けないさ」

「でも、”たけのやま” は、間違いなく、あの ”丈ヶ山” だよ」

このような堂々巡りの結果、会の名称は ”丈ヶ山ファンクラブ”、読み言葉で表すと、”たけのやまふぁんくらぶ” で落ち着いたのです。

 

さて、「寺野郷土誌稿」には、”たけのやま” という読み言葉は一切出てきません。

そこでふと思ったのが、「”丈ヶ山” と ”たけのやま” とどちらが先にできたのだろうか?」と考えてみたのです。

”丈ヶ山” は第三章に大国主命御子建御名方命が白丈の神を従えて、夜星を討伐したから、”丈ヶ山” と称したとあるので、”丈ヶ山” と漢字表記されたのは神話の時代です。

一方、”たけのやま” は、「いつごろからそう呼んでいるの?」と聞いても会員の答えは「知らないよ。ずーっと、ずーっとの大昔からだよ」としか答えが返ってきません。そりゃそうだ、寺野郷の村人全員が”たけのやま”と言っているんだから無理もない。

そこで、一般論として考えてみた。

我々が発する日本語の言葉と漢字という文字とどちらがが先か?

文字は使うが、言葉は使わない人類なんてこの世には絶対にいません。

オウムもカラスも犬も猫も言葉(鳴き声)は話すが、文字は使えません。

人類だけが、最初は言葉が先に有って、その言葉を表現するために漢字という文字を発明したのです。

と考えたら ”たけのやま” という言葉がまず先に有って、その後に ”丈ヶ山” という漢字が出来たと考えるべきだろう。

しかし、先に述べたように「”たけのやま” は漢字で ”丈ヶ山” とは書けない」のです。

でも、ひらかな文字を使えば、”たけのやま”と書けます。

となれば、”たけのやま” は、独立した山の名称であったと解釈したらどうでしょうか。

即ち、12番目の、山の名前が ”たけのやま” という訳です。

いやいや、12番目どころか、”加夫呂山” よりももっと先に ”たけのやま” が有ったに違いないのです。

「1番最初に ”たけのやま” が有って、その後 ”加夫呂山” を始め、いろいろな山の名前が民衆に使われたが、現代まで生き残っているのは神様が一番最初に言葉で言った ”たけのやま” だった」と、私は、勝手に断定することにしました。

 

一応、これで「寺野郷土誌稿を読む」は終わりにします。

最後までお付き合いくださいまして、誠に有難うございます。

では、温かくなったら、”たけのやま” の頂上で又、お会いしましょう。(文責 眞田)

 

 

 

 

 

追加

 

申し訳ありません。

終わるつもりでしたが、チョッと気づいた事が有り追加します。

寺野に住む人々が、先祖から言い伝えられている「ここが比叡山に似ている」

と言うことに関してです。

この言い伝えを、寺野の方々から聞いた時は、「比叡山とこの寺野地区とどこが似ているのだろうか?」と真剣に考えたことが有りました。

両地区の共通項目は何といっても寺院群です。

しかし、ここの今は跡形もない小規模な「山寺三千坊」と、比叡山延暦寺を始めとする京の都の一大寺院群とは規模からしても比べようもありません。

結局は何もわからないまま、今日まで来てしまいました。

さて、最後の最後の疑問文です。

15.この地区の何が比叡山に似ているのか?

 

「寺野郷土誌稿を読む」をまとめ終わってから、有ることに気付いてしまいました。

「白雉年間(650~654)に、阿果というお坊様が、加夫呂山の麓に精神的一大楽園を建設した」と言うくだりです。

つまり、阿果が寺野に来た時、650~654年頃には比叡山の大寺院群はなかったのではないのでは?と思ったのです。

調べてみると、比叡山延暦寺はずっと後の建立です。

もちろん、ここ加夫呂山の麓には、そんな寺院群はありません。

つまり、「阿果と言う人が越後のこの地に来た時代には、両地域ともお寺のような建物群など何もなかった」という結論に達してしまったのです。

「何もなかった。何もなかった」

そうだ。何もなかったのだ。

じゃあ、その時代、有ったのは何だ?

私の出した結論は「たけのやま」と「比叡山」という”山”そのものです。

つまり、このふたつの山がもしもそっくり似ているとなれば、それは山の姿形しかないではないか、と言うのが最終の結論になってしまいました。

この結論に達したら、あとは確かめるだけです。

「たけのやま」の山の姿と言えば、特異な形をしています。

「home」の写真にもあるように、左がなだらかで右が比較的傾斜が強くなっています。

つまり、左右非対称形なのです。

新井柿崎線からたけのやまを眺めても不思議なことに同じ姿形をしています。

つまり、たけのやまの西側と南側が急勾配になっています。

さて、対する比叡山の山の形はどうだ・・・。

ネットで「比叡山」の画像検索をしてみました。

京都側からの比叡山の写真画像を探します。

有りました。

京都の中心市街地からの撮影画像を見つけました。

下に「比叡山」と「たけのやま」の写真を示します。

 

いかがですか?

「比叡山」は「たけのやま」にそっくりだとは思いませんか?

間違えました。

「たけのやま」は「比叡山」にそっくりだとは思いませんか?

どっちがどっち?ですって?

申し訳ない。

上(左)が「比叡山」で、下(右)が「たけのやま」です。

 

 

さて、ここからは、私の勝手な楽しい創作話です。

 

今から1400年も前、京の都から遥々、越後国寺野に降り立った阿果は、たけのやまを見て「比叡山によく似ている」と村人達に言いました。

これを聞いた、当時の村人達は、阿果の言う比叡山なんて見たことも聞いたこともありませんでしたが、阿果という偉いお坊様の「比叡山にそっくりだ」という言葉を信じて、先祖代々、今日の今日まで ”1400年間もの永い間” 「たけのやまは比叡山に似ている」と語り伝えましたとさ。

 

 

如何でしょうか?

これって、本当だとしたら、凄くロマン溢れる伝承になりますよね・・・・・・。

”たけのやま” って、本当に素晴らしいですよね。

 

 

 

※寺野郷土誌稿によれば、寺野郷を構成している村は、久々野村、久々野村柄山、大池新田村、機織村、猿供養寺、村山寺村からなる。