たけのやまの神話

疊山峨々として樹木陰森たる所なり。薬師が峯又は加夫呂嶽とも称す。神代の昔此所に夜星と云へる豪族多くの蝦夷を従え横暴の限りを尽し良民を苦しめ薬師が奥に住みて世を乱したり。此の時大国主命御子建御名方命本郡の郡浜(伊多浜)の地に来り居られ御父の命により越の鎮撫仰せ付けられし故使を遣し夜星に説き給ひしも聞き分けず。あまつさえ弓を引し為命は幾多の神々を従え討伐し給う。此時白丈の神山上に顕れ命を助けたれば命は白丈の神は我父大国主命なりと称し喜び給う。全軍勢を得夜星を攻む。夜星敗走今日の坊け池に走る。茲にて遂に討取り給う。よりて里人此山を丈ヶ山と称し古代白丈といひ中世白ヶ岳等といふ。郷土の祖神の開きし所なれば越後第一の神山とも称すべき所なり。(寺野郷土誌稿より抜粋)

たけのやまの神話(現代口語訳)

この山を、加夫呂山とも薬師が峯とも呼んでいた昔々の神々の時代のお話です。

夜星という豪族が薬師が峯の奥に住んでいて、多くの蝦夷(えみし)を従え、横暴の限りを尽し、村の人達を苦しめていました。

 

そこで、大国主命(おおくにぬしのみこと)は、御子の建御名方命(たてみなかたのみこと)を越後の伊多浜に遣わされました。建御名方命は、父から「夜星を鎮圧せよ」と命ぜられたことを使者を送って夜星に伝えたのですが、聞き入れないどころか、弓矢で攻撃してきました。そこで、建御名方命は、多くの神を従えて夜星を討伐することにしました。この時、山の頂に ”白丈の神” が現れ、建御名方命を助けたので、建御名方命は「白丈の神は私の父の大国主命である」と言ってお喜びになりました。そして、全軍が勢いを得て夜星を攻めたて、夜星は坊け池に敗走しましたが坊け池で遂に討ち取られてしまいます。このような事から、里の人達はこの山を丈ヶ山と呼び、古代に有っては ”白丈” 中世では ”白ヶ岳” と言いました。丈ヶ山は郷土の神が開いた ”越後第一の神の山” なのです。(引用は寺野郷土誌稿より)

 

※建御名方命(たてみなかたのみこと)

古事記には大国主命(おおくにのぬしのみこと)の御子と書かれています。

”たけのやまの神話” について語り合います

総会の後、何となく、仲良し三人組が集まりました。

いつものように、楽しい会話が始まります。

 

眞田「寺野郷土誌稿に ”たけのやまの神話” が書いてあるのって、昭雄さん、久美子さん知ってた?」

昭雄「神話が有ることは知ってるよ。たけのやまの頂上に神様が顕れるんでしょ」

久美子「その神様って、大国主命(おおくにぬしのみこと)だよね・・・。確か、大国主命は別名大黒様(だいこくさま)っていう神様よ」

昭雄「そうそう、大黒様は因幡の白兎を助けた神様だよね・・・」

久美子「大きな袋を肩にかけて歩いていたら、全身傷だらけのウサギに出会うんだ」

昭雄「出雲地方の神話だよね。でもねえ・・・その大黒様が、たけのやまに顕れるの・・・って、そんなの、信じられないよ」

眞田「昭雄さん。大黒様は『白丈神』として顕れるんだよ。たけのやまの丈の字は、『白丈神』から取ったんだって」

久美子「ふ~ん」

眞田「で、気になって、図書館に行って色々調べてはみたんだけど・・・。何だか凄いことになりそうなの」

昭雄「凄いことになりそうって、どういうこと?」

眞田「日本の神話というと、『古事記』『日本書紀』に書かれたもので、天岩戸神話のように現実離れしたお話だよね。だから、日本の神話の中に、ここ越後の国の ”たけのやまの神話” なんぞが出てくる訳が絶対に有りません。と、思っていました。明雄さん、如何ですか?」

明雄「急に、如何ですか? って聞かれてもねえ。兎に角、”たけのやまの神話” に書かれたことなんて、とてもとても信じられません。大国主命がたけのやまの頂上に突然顕れちゃったんでしょ。大国主命って出雲国の神様でしょ。神様なら空中飛行なんて超簡単かもしれないけど・・・現実はどうかって考えるとね。でもねえ。『丈の字は白丈の神からとった』なんて聞くと、 『成程そうなのか』と納得しちゃう自分がもう一方にいるし・・・。困ったもんだねえ」

眞田「それでね、ヒントだけでも何か見つからないだろうかと思い、図書館に本を探しに行ったんだよ。そしたら、面白そうな本を一冊だけ見つけてしまった。内容が凄いんだ」

明雄「へー」

私が皆の前に取り出したのが、”記紀以前の資料による 古代日本正史” という厚さ3センチはある分厚い本だ。

 

 

 

眞田「著者は、原田常治さんという人だよ」

明雄「その原田常治さんてどんな人?」

眞田「婦人生活社の創業者で社長さんらしい」

明雄「どんな内容の本なの?」

眞田「前書きによるとね、『日本の古代史は「日本書紀」「古事記」の人造亡霊に振り回され過ぎている。真実の歴史は裏側に回って人造のからくりを見なければならない』と書いている」

明雄「???」

眞田「要するに、『「日本書紀」や「古事記」の神話の話例えば「天岩戸の話」などは常識ではとても信じがたい。裏が有るはずだ。徹底的に現地に行って調べてみたら、色んなことが分かってきた。それでこの本を出版することにした』と書いてある」

明雄「『神話の裏話』だって? 何だか良く分からないけど、凄いじゃん!。早速その原田さんに連絡してここに来ていただきましょうよ」

眞田「う~ん。ちょっとそれは無理かな」

明雄「エッ、どこに住んでいらっしゃるの。原田さんという人は?」

上を指差して

眞田「天国。1977年に死んじゃった」

明雄「・・・・・・」

眞田「大丈夫ですよ。ここに原田さんが書いた本を持ってきてます。私が原田さんに成り代わって説明しますから。何でも聞いて下さい」

明雄「それで、この本にたけのやまのことが書いてあったの?」

眞田「いやいや、そんなにうまく行きませんよ。たけのやまは全く出てきません。しかし、大国主命や建御名方命は出てきます。そして、どのような人物だったのかについてはかなり詳しく書いてあります」

明雄「成程、そういうことですか。分かりました。まずは最初の質問です。たけのやまの神話に出て来るふたりの神様、大国主命と建御名方命の関係についてですが、古事記でも親子関係となっているそうですが、これって事実ですか? 2番目の質問は、建御名方命は、全国にどこにでも有るような極普通の里山、ここのたけのやまの麓に何故現れたのでしょうか? でも、これはちょっと難し過ぎるかな?」

眞田「最初の質問のそれは、間違いありません。”建御名方命” はこの本の中では ”武御名方尊” と表記されています。彼は須佐之男の未子須世理姫と養子の大国主との間に生まれた3人の中の末子で出雲国の正統相続人となっています」

明雄「えっ、あの有名な大国主命は養子ですか?」

眞田「須佐之男は乱暴な性格、建御名方命も須佐之男の性格を受け継いでいて戦さ大好き人間。片や大国主命は穏やかな性格。因幡の白兎を助けた人物。何故か? それは血筋が繋がっていない養子だから・・・」

明雄「めっちゃ、分かり易いねー。でも、本当にそんなことが書いてあるの?」

眞田「ほらここだよ」

明雄「ああ。成程、面白いね。それで、大国主命の妻の父親の、須佐之男ってどんな人物なの?」

眞田「原田さんによるとね、『日本の歴史は出雲の須佐之男から始まった』 と言っています」

明雄「須佐之男は神様じゃないのですか?」

眞田「その頃、何千と有った村々を束ねた単なる豪族のおひとりです」

明雄「もう一度聞くけど、神様じゃないの?」

眞田「原田さんはね、『全国を統一して始めて、統一した人が神と崇められるです』のと説明されていますよ」

明雄「成程ねー。で、須佐之男はどこに住んでいたの?」

眞田「出雲国」

明雄「いつ生まれたの?」

眞田「西暦121年か122年頃です」

明雄「もう少し詳しく説明して下さい」

眞田「須佐之男は出雲国沼田郷で生まれています。現在の島根県平田市平田町です。平田町には「宇美神社」があり宇美は「生み」に通じ、この宇美神社には須佐之男の父親のフツ(布都御魂)が祀られている」

明雄「確か、須佐之男はヤマタノオロチを退治しているよね」

眞田「そうです。須佐之男は父布都の刀を持ち出して、出雲の大豪族ヤマタノオロチを倒し、天下取りのきっかけとなりました。この刀は石上神社の神庫に布都御魂の劔として、国宝になって現存しています」

明雄「ちょっと、待って! ヤマタノオロチは大蛇ではないのですか? 八つの頭と八つの尾を持つ・・・」

眞田「そんなお化けみたいな大蛇がいる訳ないでしょ。ヤマタノオロチは豪族の名前です。当時はこのような、人を威嚇するような名前が流行ったのでしょうと原田さんは書いています」

明雄「成程ねえ。日本神話の裏のお話なんだ」

眞田「豪族でお金がたんまりと有れば、古今東西男性である限り変わりません」

明雄「エッ、何、何?」

原田「このヤマタノオロチという豪族の親分は、出雲地方で評判となった美女を次々に自分の手元に集めたらしいのです」

久美子「あら、やらしい!」

これまで黙ってふたりの会話を聞いていた久美子さんが突然会話に割り込んできた。

眞田「その中にイナダヒメ(稲田姫)がいた。須佐之男はヤマタノオロチを退治して稲田姫を奪い出したという」

久美子「ちょっと、眞田さん、話の展開が急過ぎない?」

眞田「ごめん、ごめん。須佐之男がこの娘を好きだったのか、あるいは、権力者に対する単純な正義感であったのかは今のところは分からない。だから途中を省きました」

久美子「たしか神話では、ヤマタノオロチに食われる娘を助け出したら嫁さんにして良いと娘の両親と約束したとなっていた筈だけど。これは作り話だというの?」

眞田「そうだよ。神話では確かにそのように語られているね。ヤマタノオロチを退治したら、そこに可愛い美人の稲田姫がいた。須佐之男は一目惚れをし自分のものにした。これは私の勝手な想像」

久美子「あら、もうちょっとましな想像できないのかしら?」

眞田「本に戻るよ。須佐之男はヤマタノオロチを退治したあと、稲田姫を、父のいる沼田の家には連れて行かなかった。松江駅から南4キロの所に、縁結びの神様と名乗っている「八重垣神社」があり、須佐之男と稲田姫を一緒に祀ってあるそうだ。地元では須佐之男が稲田姫を一時隠しておいたと言う伝説が残っている」

久美子「やっぱり、何か、後ろめたいことが有るんだよ」

明雄「確か、神話ではヤマタノオロチの尻尾から刀が出て来た。これが3種の神器のひとつ。”草薙の劔” と言ってる」

眞田「そのことについては、原田さんは『ヤマタノオロチが大蛇で、その尾から刀が出たなどは、女学生の書いたおとぎ話みたいなものである』と言っています」

久美子「どこ、どこ。本当だ。本当に書いてあるわ」

眞田「ヤマタノオロチが住んでいた所は鉄の鉱山と製鉄所が有った。製鉄所を運営して財を成した。製鉄所では鍋や鎌の他刀も作る。須佐之男はヤマタノオロチが所有する一級品の刀を奪った」

久美子「成程ねえ。須佐之男が神話じゃないと考えると、極普通の展開に思えて来るわ」

眞田「そして、須佐之男と稲田姫の末子、須世理姫が養子大国主命と夫婦になった。更に、その夫婦の末子が武御名方なんだ」

昭雄「というところまでは何となく理解しました。で、大国主命の未子の武御名方が、越後たけのやまに顕れたのは何故なの?」

眞田「2番目の質問だよね」

明雄「私が最も知りたいことなんだけど」

眞田「まあ、あせらないで。須佐之男は鉄の鉱山と美女を手に入れたことが切っ掛けで、35歳頃には出雲や山陰地方では頭領と仰がれるようになった。九州ではこの頃(154年頃)大日霊子【ひみこ】(天照大神)が生まれている。須佐之男は173年頃、50歳を過ぎた頃に、九州侵攻を決行した」

明雄「何故九州なの?」

眞田「その頃は、日向国と出雲国が勢力を持っていた、その他の国は自然従属の状態だったらしい。又、出雲は寒冷地で特に冷害で食料が欠乏することが有るが九州地方は温暖でよく米がとれた。豊の国は(豊前、豊後)は盆地が多く当時の穀倉地帯だったし、宮崎、佐土原、西都も穀倉地だった」

明雄「成程ねー。分かるなー」

眞田「九州を須佐之男が完全に占領したのは177年頃だ。中国の梁書には『霊帝の光和(178-182)の時倭国乱る』と記されている」

久美子「ちょっと待って。倭国といえば邪馬台国のことじゃない?さっき、九州では ”ひみこ【大日霊子】が生まれている” と言わなかったっけ。邪馬台国は古事記や日本書紀には出てこなかったはず」

眞田「邪馬台国は古事記や日本書紀には出てこなかったというのはその通りなんだけど、原田さんは、大日霊子(ひみこ)は天照大神だと言っているんだよ。そうなると、古事記や日本書紀に出てくることになる」

久美子「それって、新説なの?」

眞田「原田さんによるとね。本の中では『九州侵攻のとき、当時大日霊子の住んでいた現在の宮崎市に達したのは177年頃で、須佐之男55,6歳、大日霊子23,4歳位の時である。威風堂々、騎馬部隊の先頭に立って乗り込んできた須佐之男の男姿に、驚きの目で魅せられたらしい大日霊子は、進んで須佐之男に接近したらしく、その後、須佐之男が九州統治をしていた間、現地妻のような形で須佐之男との間に3人の女子を生んでいる』と書いている」

明雄「何々、大日霊子ちゃんも相当な女だねえ。で、その後はどうなったの?」

眞田「須佐之男は九州を制圧した後、大和の他、大陸進出まで考えていたらしい。しかし、63,4歳の頃亡くなった」

明雄「日本の国を統治した須佐之男が死ぬと当然国内が乱れるよね。さてさて」

眞田「出雲には、須佐之男と稲田姫の間に4人の男子と3人の女子がいる。九州には、現地妻のような形で、大日霊子との間に3人の女子がいる。出雲の7人の子の内、末子の須世理姫の夫が大国主命であることは既に述べたね。当時は、末子が家督を継ぐことに決まっていた。つまり、出雲では大国主命が正統相続人となる訳だ。その大国主命には須世理姫との間に3人の子がいる。この未子が ”建御名方命” だ。正統相続人である大国主命は九州にもよく出かけていたらしい。そこには、大日霊子の3人の娘がいる。そして、3人の内の長女多紀理姫と仲良くなってしまった。そのうち、出雲には帰らず、九州宮崎に逗留することが多くなった」

久美子「あらあら、また、やらしい話が始まった」

眞田「多紀理姫は絶世の美女だと伝えられている。一方出雲の須世理姫は15歳も年上」

久美子「やだ、やだ。そんな展開、聞きたくもないわ」

明雄「久美子さん、本心は違うんじゃない」

久美子「ごめん。訂正いたします。やだ、やだ、そんな展開❤️聞きとうございます」

眞田「それに、須世理姫は大変な焼きもちやきだったとも伝えられている」

久美子「あらまあ、眞田さんは大国主命を庇うの?」

眞田「違うよ。原田さんがそのように書いてあるのよ」

久美子「どこよ。あら、本当に書いてあるわ」

眞田「でしょ。そして、大国主命は、九州今の西都市で亡くなる。つまり現地妻の多紀理姫に看取られて亡くなる」

久美子「まあ」

眞田「九州では、大国主命と多紀理姫との間には2男1女が生まれている。未子は ”事代主(ことしろぬし)” という。未子相続の慣習で事代主が九州を継ぐことになった。しかし、5,6歳と若かったため、祖母の大日霊子が女王となった。大日霊子は『大国主命は出雲国の正統相続人である』という理由から、出雲国の相続権をも主張して出雲に乗り込んできた」

久美子「ということは、跡目争いの修羅場が始まったのね」

眞田「そういうことになる。一方、出雲国では正統相続人の大国主命が亡くなったので須世理姫の未子、”武御名方” が出雲国を相続した」

明雄「ようやく武御名方が表舞台に登場したか。九州の大日霊子軍対出雲国の武御名方軍の衝突。それで、どっちが勝つの?」

眞田「ところがいくら調べても、せいぜい小競り合いくらいで大きな戦さは伝わっていない」

明雄「????」

眞田「相続権の争いは、4,5年の間続き、結局、大日霊子側が勝利する。原田さんは、大日霊子の邪馬台国側が勝ったことについて次のように書いている。第一の理由は ”未子相続権” だと。大日霊子の孫の事代主はまだ10歳前後。当時は未子相続権というのは絶対的な権利であった。大日霊子はこの権利を強く主張した。一方の出雲方は、『大国主は養子であるが血筋としては武御名方が正統の相続人だ』と主張した。しかし、大日霊子の主張の方が筋が通っていた。その上、経済的にも人材的にも九州側が勝っていた」

久美子「武御名方は戦わずして理論で負けちゃったのね。可哀そう」

明雄「それで、我らの武御名方はどうなったの?」

眞田「おっ。我らと来たか!」

久美子「まさか、佐渡へ島流し? なんちゃって」

眞田「島流しではないが、出雲国から追放された。少なくとも、邪馬台国の勢力範囲外にね」

久美子「となると、北の方しかないね」

眞田「久美子さん、どこか分かりますか?」

久美子「もしかして、信濃国の諏訪湖辺り。諏訪湖周辺には、神無月が無いと聞いたことが有ります。10月は全国の神様が出雲大社に集まります。それで、10月は神無月と言います。ところが、諏訪地方には神無月が無い。ということは? アッ、分かった。ここの神様は、出雲大社に呼ばれないのだ。そうすると諏訪大社の御祭神は武御名方命となるが・・・当たり?」

眞田「久美子さんに拍手! 現在でも諏訪の人達は『うちの神様は10月になっても出雲にはいかない。10月にこっちにおります』と言っています」

明雄「出雲から諏訪までどうやって行ったんだろうか?」

眞田「原田さんは、当時は陸路ではそんなに遠くまで行けなかったと推測した。つまり、海岸に沿って船で行ったと。それで、海岸部に武御名方を祭る神社が無いか探し始めたそうだ」

明雄「だんだん核心に近づいてきてる気がしてきた。わくわくしてきたぞ。それで、どうだったの?」

眞田「最初に見つけたのは能登半島だ。羽咋市の近くの志雄町の神社。神社の名は”志宇神社”に武御名方が祀られている。そこには『この神様は、10月に出雲に出張しない。留守番をしている』と書いてある」

明雄「現実的になってきたな」

眞田「船を下りて、陸に上がった所が、能登半島の付け根だった。そこに神社が有るってことはしばらくここに生活したということらしい」

明雄「何のため?」

眞田「当然、出雲奪回だ」

昭雄「面白くなってきたな。それで?」

眞田「ところが、大日霊子率いる九州勢はそれはお見通しだ」

明雄「何?何?」

眞田「出雲から武甕槌(たけみかづち)と経津主(ふつぬし)がここまで攻めて来た」

久美子「頑張れ、我ら武御名方!」

眞田「でも、攻める方が絶対に有利。武御名方はさらに北へと逃げ出すしかなかった」

久美子「まあ」

眞田「沿岸をずっと探したら、越後の平潟に神社が有った。平潟神社という。平潟は今の長岡市辺りだ。信濃川の河口まで逃げてきて、内陸部を船で遡ったらしい。平潟で再起を図り軍勢を集めたらしい」

明雄「いいぞ、いいぞ」

眞田「しかし、武御名方は更に上流を目指したらしい。飯山市には『健御名方富命彦神別神社』が有る。ただし、この神社は長野市城山の健御名方富命彦神別神社から分社したことが分かった。だからここには留まってはいない」

明雄「で、どこまで行ったの?」

眞田「長野市の城山町」

久美子「城山町って、善光寺が有るところだよ」

眞田「良く知っているね。その善光寺の西の一段高いところに現在『健御名方富命彦神別神社』が有る。彦神別は武御名方の長男だ。この神社の記録には『健御名方富命が出雲国よりこの信濃へご入国のみぎり、この水内の地に止まり、先住の地方民に教化ををしき、御徳を施し、地方民は命の御徳を敬慕して奉仕した』と有る」

久美子「長野市の所で兵力を蓄えたというのね」

眞田「ところが、大日霊子軍はここまで攻めて来やがった」

久美子「しつこい人たちねえ」

眞田「今までで一番の激戦となったらしい。ここで、建御名方軍は全滅したらしい」

久美子「あらまー。それで、武御名方は、諏訪まで逃げたってストーリーなの?」

眞田「そうだよ。ところが、大日霊子軍は諏訪まで追いかけ攻め込んだ」

久美子「まあ。本当にしつこい人達ねー」

眞田「そして、諏訪の地で武御名方は捕まって降参してしまう。そして、『もう、出雲奪還は諦める、一生信濃の国の外には出ない』という約束をさせられた」

久美子「それで、諏訪の神様武御名方は神有月なんだ」

眞田「これで原田さんの本の説明は終わりなんだけど、明雄さんいかがでしたか?」

明雄「建御名方は相続争いに負け、海岸沿いを北上し新潟市の信濃川河口から川を遡り長野の諏訪まで行ったということは理解できました。それも、彼は出雲奪還を諦めていなかったので途中の豪族を味方に付けながら再起を図った。でもちょっと、引っかかります。私の感覚からすると、諏訪まで行くとすれば、何も新潟市辺りまで行くことはないと思うのです。折角新潟辺りまで行ったのであれば山形の酒田に向かえばいいと思うのです。どうですか?」

眞田「逃げて逃げて諏訪にたどり着いたのですから、最初から諏訪が目的地では無かったと思いますよ」

明雄「この疑問、誰か解けないかな?」

久美子「何かに書いてあった記憶が有るのだけど、大昔、どんな地形の所に人々が集まったかというと・・・。それは盆地だった。日本で一番の盆地地形は九州東部。そこは邪馬台国。次の盆地は大和、今の京都奈良盆地。そこは大和朝廷。次は、何と信州の長野盆地。出雲だけは盆地ではないが大きな淡水湖が有った・・・と」

明雄「それだよ。建御名方は最初から長野盆地を目指したんだ。そうに違いない。そうなると、新潟市辺りまで船で行く必要は全くない。糸魚川から姫川沿いの道もある。直江津から関川沿いで長野に行ける。柏崎から長岡経由で長野に行ける。でもこれだと相当遠回りだけど」

久美子「大昔は、姫川沿いの長野へ抜けるルートは陸路が無かった。あの山越えは険し過ぎる」

明雄「そうだね。で、関川沿いは?」

眞田「今なら国道や高速道路が有り簡単に行けるが、大昔はこのルートも険しい道だったと思う」

突然3人が同時に声を上げた。

何かに気付いたらしい。

眞田「疑問が一気に溶けそうだ。明雄さん、久美子さん多分私と同じことを思い浮かべましたね」

3人とも顔を見合わせ頷いた。

明雄「レディファースト。久美子さんからどうぞ」

久美子「私でいいのかしら。今ね、猿供養寺集落の人柱伝説を思い出したの。せいぜい800年位前のお話なんだけど。長野から上越に来るルートは関田山脈越え。旅のお坊さんは、黒倉峠を越えて猿供養寺村へやってきて人柱になった。関川沿いの山越えよりも関田山脈越えの方が通常の簡単ルートだったのでは?。800年前ですらそうなんだもの。2000年前は尚更そうに違いない」

明雄「私も同じことを考えました。建御名方は直江津海岸で船を下りた。神話では伊多浜となっています。そこから長野盆地を目指したのです。その最短ルートが、たけのやまの麓を通るルートだった。しかし、そこには、夜星という名の豪族がいた。夜星は ”たけのやまの神話” に書いてあるようなな悪い豪族ではないと思う。建御名方は夜星を強引に自軍に引き入れようとしたんだよ。しかし、夜星は建御名方の言うことを聞かなかった。『やれるものならやってみな。返り討ちにしてやろう』という訳だ。建御名方は逃亡中の身。兵力はそれほど強くない。困った建御名方は・・・」

眞田「後は私が・・・。その時、建御名方は、たまたま、たけのやまの頂上が光り輝くのを見た。それを見た建御名方は「わが父、大国主命がお出ましになった」と言って自軍を鼓舞し、何とか夜星を打ち負かした」

久美子「そして、この出来事が、いつしか ”たけのやまの神話” となった」

明雄「たけのやまの頂上が発光するという現象は、現在も村人の間に言い伝えられている。実際、多くの村人が目撃しているよ」

眞田「山の頂上が光るという現象については、科学的な説明が出来るのではないかと思う。たけのやまだけが貫入岩で独立峰。例えば地下のエネルギーが・・・やっぱり、分からんわ」

明雄「建御名方は、山の頂上に現れた大国主を ”白丈の神” と言った。しかし、この時もうすでに父親の大国主は死亡している。死んだ人が山の上に現れるはずがない。ということは、建御名方は自軍を鼓舞するために嘘を言ったということになる。でも、多分山が発光したのは事実だと思う。今でもたけのやまは時々発光しているんだもの。そうなると『白丈』という名前は、建御名方がその時思い付きでつけた名前かも知れないね」

久美子「言葉が先に有って、後に漢字を充てたとすると、『建、健、武、丈』はいずれも「タケ」と読むし、殆んど同意語の漢字だよねえ」

明雄「でも、建御名方がここのたけのやまの麓を通って信濃に抜けたとすると、原田さんのいう長岡の平潟神社はどのように説明するのかなあ?」

久美子「あら、諏訪神社なんか、日本全国どこにでもあるじゃない? 上越市内にもいっぱいあるよ。後で造ったんじゃないの?」

眞田「ネットで長岡の平潟神社を検索すると『平潟諏訪神社』とも言うらしいよ」

久美子「能登の神社、善光寺に有る神社、諏訪大社などには、建御名方の言い伝えが残っていたわ。平潟神社の言い伝えはどんな言い伝えかしら?」

眞田「明雄さん、スマホで調べてみて。トイレ休憩」

戻ってくると

明雄「詳しくは良く分からないみたい。長岡市史では創建がいつなのか分からないと出ている。そして、天平年間の奈良時代に行基が参拝したという言い伝えが有るという。ということで奈良時代には既に平潟神社は現存したと言われている」

眞田「建御名方本人の言い伝えは有るの?無いの?」

明雄「いくら調べても、無い」

眞田「建御名方の時代は、長岡辺りは信濃川の氾濫原だったと思うよ。つまり、米作りに適していない場所に人々は集落を造らなかったと私は思う」

久美子「どうやら私達の推論が正しいみたいね」

眞田「という結論に達したので今日はお開きにしましょうか」

                  おわり

 

※建御名方命の ”建” については

 原田常治氏著作の本からの引用の場合はその本の表示に従い ”武” ”健” ”建” にします。

 たけのやまの神話に係る場合は、寺野郷土誌稿に従い ”建” と表示します。

  

 

 

”たけのやまの神話” を最後までお読みくださいまして有難うございました。

改めて、たけのやまという里山がこんなにも色々な歴史を持っていることに驚かされます。

歴史というのは、そのまま放っておくといつしか廃れてしまいます。

事実、今現在、この ”たけのやまの神話” を信ずる人は残念ながら寺野郷の方たちの中でも数えるほどしかいません。

まして、県内や国内においてはほぼゼロでしょう。

私達3名のおしゃべりに近い「語り合い」の内容が皆様の心に響いていただければ、幸甚に思います。

 

 

 

この「語り合い」の中で、 ”須佐之男が大日霊子を現地妻にした” だとか ”大国主が義理の父須佐之男の娘を現地妻にした” などと私達は楽しく会話しています。

会員の久美子さんは「あら、又、やらしい話が始まったわ」等と茶化していますが、この ”やらしい話” について、原田さんは著書の ”あとがき” で次のように述べています。

凄く重要な視点だと思いますのでそのまま転記し紹介します。

 

 

あとがき

この本を読まれる方に、またこれによって学校で教えられる場合に、左のことについては絶対考慮して貰いたい。

それは、社会通念とか道徳観念の問題である。

こういうことは、国が変われば通念も変わる。あるいは宗教が違えば通念も違う。

アフリカの某国の国王が、外国のたくさんのお客を招待した席へ、十八歳の若い花嫁を伴って現れ、今日は結婚式だと披露した。しかしこれは「第四夫人」だった。

これはアフリカの通念で、別に誰も不思議にも思わないし、当然だと祝福している。

場所だけではない。時代も変われば、社会通念も変わるのが当たり前である。

戦後、ある小学校の先生が「仁徳天皇は、三人も五人も妾を持っていた。ちっとも偉くない」と、生徒に言ったという話をきいて憤慨したことがあった。

仁徳天皇は今の時代の方ではない、千六百年も以前の時代のことである。その頃の社会通念や道徳通念と現在とは、全然異なっているのが当然である。

それを、現在の人間、現在の生活に立たせて批判するとは、あまりにも無知である。

この日本の古代史にしても、当時の日本にはまだ仏教もなかった。儒教もなかった。

そんな堅苦しいものに縛られない、おおらかな時代だった。

男女関係にしても、あまり観念で束縛されない、自由でおおらかな時代だったと想像できる。

それで、須佐之男と大日霊子の関係や、大国主、多紀理姫の関係、あるいは神武天皇と吾平津姫の関係等々、その他でも、みんな当然のことで、誰もそれにこだわるようなことはなかったと思う。

仏教や儒教の洗礼を、長期間うけた今の日本人の社会通念や道徳観念で、批判めいたことをいうほうが無知である。

違った世界として扱うのが正しいと思う。

 

その点、この日本の古代を教える時に、気をつけてほしいと思う。(原文のまま)