私達が ”たけのやま” と呼んでいるこの里山は、”寺野郷土誌稿を読む” で述べたように12個もの多くの名称を持っています。ひとつの山で、これ程多くの名称で呼ばれる山は日本国内はもとより世界中でも、この ”たけのやま” だけでしょう。
では、私達が呼んでる ”たけのやま” は漢字表記ではどう書くのでしょうか?
この答えは、「”たけのやま” は、あくまでも呼み言葉であり、漢字表記そのものがそもそも存在しないのです」というのが寺野郷に住む村人達の一致した結論でした。
村人達の誰に尋ねてみても、”たけのやま” の漢字表記なんぞは、どこにも存在しなかったのです。
ところが、それこそ偶然に見つけてしまったのですが、”たけのやま” を『竹ノ山』と漢字表記してある、国土地理院の公的な資料をこの程発見してしまいました。
”たけのやま” の山頂、丁度、身の丈地蔵様の後方に、山の高さを示す、『三角点』の標柱が埋められています。
10年以上も前のお話になりますが、寺野郷の村人達と ”たけのやま” に登った時、山頂は一面竹藪に覆われていました。
国土地理院発行の地形図を見ると、”たけのやま” は『丈ヶ山』と表記されており、山頂には三角点の▲印が有り、どこかに三角点が有ることは分かるのですが、村人達には三角点の存在自体には全く関心が有りませんでした。
そして、村人達と何回か、”たけのやま” に登り始めて、改めて、山頂からの眺めの素晴らしさを再認識し、山頂から四方が見渡せるように、一面に生い茂っている人の背丈程もある竹藪を伐採したのです。
下の写真は、たけのやま山頂の竹藪を、刈り取っている様子です
(2005.11.11 15:00頃)
竹藪を、全て刈り払った結果、村人達の目の前に現れたのが、明らかに人工的に盛り土されたと思われる ”四角推台の盛り土” だったのです。
村人のひとりはこの四角推台の地形を見て、『これは、昔々、偉いお坊様が修業したという ”戒壇” というものに違いない』と言い出し大騒ぎになったのです。
その後、村人達は、上越市役所の文化財担当部所に行き、発掘調査もしていただきました。
しかし、発掘調査の結果は、あまり芳しいものではなかったのか、市から期待したほどの報告は有りませんでした。
写真は、発掘調査の様子です。
2020年10月、雪崩・地すべり研究センター長さん、妙高砂防所長・課長さん達と猿供養寺地すべり地の最上端に位置する ”たけのやま” に登りました。
たけのやまの頂上からは、猿供養寺地すべり地の全体像が見渡せるのです。
私は、山頂で ”戒壇” のお話をし、「もしかしたら、三角点を設置した時、土台として、国土地理院が四角推台の盛り土をしたという仮説はどうでしょうか?」と皆さんに話題を提供してみたのです。
この話を聞いた、雪崩・地すべり研究センターの所長さん、早速色々と調べていただき、数日後に、私の所にメールが送られてきました。
そのメールによると、国土地理院では、我々国民が誰でも自由に閲覧できる『基準点成果等閲覧サービス』なるものが有ると書いてありました。
この『基準点成果等閲覧サービス』から得られた情報をそのままこのHPに公開するのは、国土地理院の許可が必要だと言うので、差し控えますが、そこには、とても面白い情報が載っていました。
興味のある方は、是非国土地理院のホームページを訪ねてみて下さい。
その『基準点成果等閲覧サービス』によると、 ”たけのやま” に設置してある三角点について『三等三角点の記』という表が有り、三角点の点名として『竹ノ山』と漢字表記されていました。
ふりがなは『たけのやま』となっています。
三角点の設置年は随分と古く明治40年6月10日です。
再調査は平成19年となっていました。
調査票には自動車到達地点は山寺薬師より北1.6km地点と有り、そこから100mの小道が有ると書いてあります。
明治40年に、既に車の通れる裏道が有ったことに驚きました。
更に、私を驚愕させたのは、三角点の平面図が有り、その平面図には、”明らかに四角推台の地形が描かれていた” のです。
私は、この表図を見て ”これはもう、国土地理院が施工した盛り土を表したものに違いない” と確信してしまったのです。
それから、しばらく、日数が経過しました。
『点の記』の表図に出会ったその時から、何やら心の中のもやもやをずっと感じていました。
「もしかして、自分は何か大きな勘違いをしてやいないだろうか?」自問自答が続きます。
漸くそのもやもや感が何か、分かりかけてきました。
それは、”国土地理院が示した表図そのものは、明治40年のものではなく、最近の平成19年のものではないのか?” という新たな疑問でした。
明治40年と言えば、今から100年位も前の時代です。
表図には、桜の木が書いてありました。
私は、その桜の木に違和感を覚えたのです。
その桜の場所には、現在も桜の木が確かに有ります。
桜の木の品種が何か私には分かりませんが、もし、桜の木が普通のソメイヨシノであれば、樹齢100年は長過ぎます。
ソメイヨシノは60年位で枯れると聞いたことが有ります。
このことから、”表図に描かれた平面図は明治40年当時のものでは無く平成19年のものではないだろうか?”
その疑問は徐々に確信へと変化していきます。
「こうなったら、直接、国土地理院に聞いてみるしかないではないか」と思い立ち、国土地理院のホームページから質問できる方法が無いかどうか探してみました。
その結果、ホームページの中に『お問合せ受付メール』というのをようやく見つけ、そこから思い切って国土地理院に質問してみたのです。
毎日のお仕事ご苦労様です。 基準点成果等閲覧サービスを見て質問致します。 基準点コードTR35538421701 三等三角点 基準点名 竹ノ山についてですが ①要図の右の平面図は、明治40年のものでしょうか、それとも平成19年に描かれたものでしょうか? ②国土地理院の地図では山の名称は「丈ヶ山」です。村の古文書も「丈ヶ山」です。基準点基本情報では基準点名は「竹ノ山」となっています。地元では、山の名を呼ぶときは村人全てが「たけのやま」と呼んでいます。しかし、「たけのやま」を「竹ノ山」と漢字表記することは、村人の誰も知らないのです。今回、閲覧サービスで初めて知ったのです。明治40年の当時に「たけのやま」を「竹ノ山」と漢字表記した理由を知りたいのです。 「このような事が考えられるのではないか」位で充分です。ご意見を伺いたいと思います。
国土地理院の担当の方から、直ぐに回答をいただきました。
いただいた問い合わせについてインラインで回答いたします。
①要図の右の平面図は、明治40年のものでしょうか、それとも平成19年に描かれたものでしょうか?
【回答】 ご覧いただいている点の記の右の平面図は平成19年に調製されたものになります。
②国土地理院の地図では山の名称は「丈ヶ山」です。村の古文書も「丈ヶ山」です。基準点基本情報では基準点名は「竹ノ山」となっています。地元では、山の名を呼ぶときは村人全てが「たけのやま」と呼んでいます。しかし、「たけのやま」を「竹ノ山」と漢字表記することは、村人の誰も知らないのです。今回、閲覧サービスで初めて知ったのです。明治40年の当時に「たけのやま」を「竹ノ山」と漢字表記した理由を知りたいのです。 「このような事が考えられるのではないか」位で充分です。ご意見を伺いたいと思います。
【回答】 設置当時(明治40年)の点の記を確認したところ、所在の欄に俗称として「タケノ山」と記載されており、点名は現在と同じ「竹ノ山」となっております。三角点の点名は当該三角点を選点した測量係(選点者)がつけるのが通例です。俗称を用いて点名を「竹ノ山」としたのではないかと推察します。何故「竹」の漢字をその測量係(選点者)が用いたのかについては、それを示す資料が無いため、申し訳ありませんが分かりません。 どうぞよろしくお願いいたします。
やはり私が大きな思い違いをしていました。
要図の中の平面図は、平成19年に再測量の結果書き加えられたものだったのです。
となると、当然、裏参道(林道)についても、明治40年に有ったかどうか不明です。
2番目の質問の回答には「成程!」と大いに合点しました。
回答には「当該三角点を選点した測量係(選点者)が通例として名付ける」と有りました。
三角点の名付け親は測量係(選点者)でした。
つまり「丈ヶ山」は山の名前、「竹ノ山」は三角点の名前です。
「タケノ山」という俗称を「竹ノ山」としたという回答に充分納得しました。
さて、第一番目の回答です。
私の疑問は台形地形は国土地理院が施工したものか?
それとも台形地形が既に有った所に三角点を設置したのか?
これを最終的にお聞きしたかったのです。
どうやら、私の質問の仕方が悪かったようです。
申し訳ないと思いつつ、再び、質問してみることにしました。
三角点「竹ノ山」についての、早速のご回答、誠に有難うございました。 ①の要図について、私の質問の仕方が不味かったので、再度質問致します。 私を含め地元の村の方々の大きな疑問は、要図に示された台形地形なのです。10年程前、村の方々と頂上の竹藪を刈り取った時、美しい台形地形が目の前に現れました。村人たちは、この地形を見て、「1300年前の『戒壇』に違いない」と大騒ぎになったのです。その後、専門家による発掘調査もしましたが、結局何も得られませんでした。今回、「竹ノ山の点の記」を拝見して、私は、もしかしたら、台形地形は国土地理院が明治40年に三角点を施工した時の「施工図」なのではないかと思ったのです。つまり、「元々台形地形が有った所に三角点を埋めたのではなく、三角点を施工するために土台としてあの台形地形を明治40年に国土地理院が施工した」と推測したのです。 明治40年の平面図(施工図)がもしも残っているとしたら、そこに何か手掛かりは有りませんか? また、明治40年前後に施工された全国の三角点の平面図(施工図)に、台形地形を土台とする三角点は有りますでしょうか? 比較的低い山の他の三角点に台形地形が有れば、国土地理院の施工だと思われますが如何でしょうか? 年末でお忙しい時期だと思いますが、よろしくお願いいたします。
翌日、直ぐに回答をいただきました。
回答は以下になります。
設置当時(明治40年)に調製された点の記には、現在の点の記のような平面図の記載はありません。また、どのように三角点が設置されたかを記録したものもありません。 よって、質問者様が言う「美しい台形地形」がどのようにして作られたか、又は元々そのような地形であったかについて、申し訳ありませんが分かりません。 以上についてよろしくお願いします。
回答は、一言でいうと「分からない」でした。
国土地理院の施工かも知れないし、元々あった地形かも知れない。
これが、国土地理院の公式見解でした。
ここから以下は、殆んど私の空想物語だと思ってお読みください。
たけのやまの
台形地形の謎に
挑戦する
たけのやまの頂上に明らかに存在する ”美しき台形地形” について、現時点までに、判明したことは次の通りです。
1、上越市による発掘調査の結果では、村人達が期待した ”戒壇” ではなさそうだ。
2、国土地理院の施工かどうかは、国土地理院の見解は「分からない」だ。
3、しかし、”美しき台形地形” は、たけのやまの頂上に存在する。
今回の国土地理院への質問と回答を何度も読み返してみた結果、有ることに気が付きました。
それは、「このような台形地形が他の三角点にあるかどうか?」という私の質問には答えて戴いていないということです。
恐らくこのことも含めて「分からない」ということだろうが・・・。
「それじゃ、私が直接調べればいいじゃないか」と思い、再度「基準点成果等閲覧サービス」を開いて、丈ヶ山周辺の三角点から、手当たり次第にチェックしていったのです。
50個以上チェックした結果であるが、まだ、「竹ノ山」三角点の台形地形に似た要図は一つも発見出来ませんでした。
点の記の半分位は、まだ、手書き文字のままのも結構有り、そこには要図の表示はありません。
多くの要図を見ていて、何となく気付いた事がありました。
それは「要図は、三角点の位置をただただ単純に表したもの」という気がしてきたのです。
と、同時に、例の盛り土は国土地理院の施工じゃないような気持ちに徐々になってきました。
もし、三角点に付随した盛り土であれば、明治40年の施工です。
明治40年に国土地理院の三角点を選定した測量者は、地権者と一緒に「丈ヶ山」頂上に登った。
その時の頂上の様子を想像してみました。
私達が10年以上前頂上に登った時は、頂上は一面自然の竹藪でした。
”明治40年当時も同じように竹藪であったに違いない” と考えたら、竹藪をすべて刈り取らない限り頂上の地盤の全体像は見えてこない筈です。
測量者は竹藪をかき分けかき分け、最も高い所と思しき地点に三角点の標柱を地中に埋め込むことにしたのでしょう。
よくよく考えれば、”山の頂上の三角点というのは山の高さを表示するものであるから、測量者が山頂に50センチも嵩上げして埋め込むなんて行為は絶対に有りえない” ということに漸く気付いたのです。
こんな単純明解なことに何故気が付かなかったのでしょうか。
頂上の盛り土は、”戒壇” でもなければ、国土地理院の施工したものでもありませんでした。
これが、今回の結論です。
それじゃ、この台形地形盛り土は一体何だろうか!
盛り土の形状を少し詳しく説明しておきます。
高さ、50センチ位、縦横約5メートルの四角形。上面はほぼ平らで勾配は無し。
「竹ノ山の三等三角点の記」をもう一度眺めてみました。
三角点の所在地が書いてありました。
新潟県上越市板倉区東山寺字薬師堂1034番甲
板倉区となっているので、平成合併後の所在地です。
私が、この所在地の住所表記を見て「やや、これは何だ!」と思ったのは、字名の ”字薬師堂” だったのです。
もしも、もしもだ、薬師堂が、たけのやまの頂上に建っていたとしたら・・・。
薬師堂が有ったから、字名を「薬師堂」にしたのではないだろうかと・・・。
”もし、薬師堂が山頂に建っていたとしたら、その基礎となる土台部はどんな形だろうか?” と考えてみました。
自然の山のてっぺんは、平らであろう筈がない。
”そうか、あの盛り土は薬師堂の基礎土台なのでは?”
基礎土台の盛り土だとすれば、上面が水平で、ほぼ四角形なのも充分理由がたつよな。
山頂の凹凸な地形を均すために、50センチほど盛り土をしたという理由は大いに頷けるよな。
近くの山の土をここに運んだとなれば、盛り土の土をいくら調べたって、遺構が出る訳がないよな。
多分、薬師堂の基礎土台盛り土で間違いない・・・と思う。
これで、”美しき盛り土” の謎がやっと解けた!・・・かどうか・・・。
・・・まだ分からない・・・。
改めて「寺野郷土誌稿」を開いて見ました。
「寺野郷土誌稿」には、神代の昔、丈ヶ山は「加夫呂山」と称したとあります。そして、カッコ書きで「文六山、又は薬師が峰と称す」と有りました。
後段には、「薬師が嶽」ともいうとあります。
ああ、「寺野郷土誌稿」にも明快に書かれていました。
これで謎がスッキリと解けました。
「加夫呂山」と称した山頂に薬師堂が建っていたから、「加夫呂山」を別名「薬師が峰」や「薬師が嶽」と言ったのです。
美しき台形盛り土の正体は、薬師堂の基礎土台でした。
建築物の土台盛り土であるから、上面は四角形、平らであるのは当然です。
10年程前、山頂の竹藪をすべて刈り払ったあの時、1300年から1400年前の古の古代地形が初めて我々の前に現れたのです。
”美しき台形盛り土”として・・・・・・。
終わり
これで「たけのやま異聞(たけのやまの台形地形の謎に挑戦する)」は終わりにします。
今回、 ”たけのやま” を『竹ノ山』と表示してある国土地理院の『三角点の記』を偶然見つけ、そこから、山頂にある台形盛り土の謎解きが急展開し、謎の盛り土地形は、最後に『薬師堂の基礎盛り土』であることを突き止めることになりました。
しかし、これは、今のところ、単なる仮説の域を一歩も出ていません。
今後は、寺野郷の方々や本職の歴史の先生方にご意見を聞き、この謎解きの真偽を確かめていきたいと思っています。
長文を、最後までお読みくださいまして有難うございます。
そして、私のくだらない質問に2回もご真摯に丁寧にご回答下さった国土地理院の担当の方、心から感謝いたします。
令和2年12月21日 眞田