ふたりのサル変死事件

表題の”ふたりのサル変死事件”をお話しする前に、四つの古典書について述べてみます。

四つの古典書は、いずれも成立時の都である京都や奈良で編集されています。

しかし、四つの古典書の編集年代が大きく異なります。

最も古い大日本国法華経験記の成立年は、西暦1040年から1044年の間と言われていますし、最も新しい元亨釈書は、西暦1278年から1346年であり、最も古い大日本国法華経験記からは、238年~302年も後に成立しているのです。

更に、乙寺がこの地、東山寺に建立されたのが西暦736年頃ですから、最も古いとされる大日本国法華経験記であっても、ふたりのサルが山の中で不慮の事故に遭遇してから約300年も経過してから編集されたことになるのです。

最も新しい元亨釈書に至ってはふたりのサルが亡くなってから何と、500年~600年も後に編集されたことになります。

越後の山の中で、サルが亡くなったという不思議な事件が起きた西暦736年頃、当時の中央政府や天皇は、各地の地方を統治するため、文字を読み書きできる人例えば僧侶や官吏を各地方に派遣しました。

地方に派遣された人は地方に発生した事件やその土地の言い伝えなどを都に文字(文書)で報告します。

その結果、全国各地からの膨大な量の地方の逸話や説話などが都の一か所に集められます。

その多くは、紙に墨で書かれていますから、何十年間もの保存は難しいでしょう。

そのため、紙が、虫食い人なったり、腐食したりする前に、書き直すことになります。

また、何かの目的例えば、”仏教説話をまとめてみよう”などの目的で、都では膨大な地方からの資料の編集作業が始まります。

このような編集作業は、その時代時代の要請により何回も何回も編集し直されます。

結果として、越後の猿のお話は、これら四つの古典書に掲載されることになったと考えられます。

ある目的を持って元の逸話が編集されるということは、元の逸話の原文は、その目的に有ったストーリーに訂正されることもあるでしょう。

保存の為に書き写す時に誤写されることも考えられます。

四つの古典書の猿のお話の内容が500年~600年の時間差があるのですから、ピッタリと一致しているなんてことは絶対に有りえないと考えるのが常識です。

当然のこととして、越後の猿のお話も、四つの古典書は少しずつ異なっています。

ところが不思議なことに、サルの死んだ様子だけは、何故か四つともほとんど同じなのです。

 


インターネットの百科事典ウィキペディアで四つの古典を検索してみました。

大日本国法華経験記

本書は『日本往生極楽記』および『三宝絵』に依拠するところが大きい。本書の聖徳太子伝など10の伝記は『日本往生極楽記』から採られたことが明らかである。また、『日本霊異記』の説話と内容が一致するものが6例あり、「霊異記に見ゆ」といった注が付されているが、それらは注の記述も含め『三宝絵』から採られたことが明らかになっている。このほか、『叡山大師伝』や『慈覚大師伝』といった僧伝も用いられている。

今昔物語集

『今昔物語集』の話はすべて創作ではなく、他の本からの引き写しであると考えられている[要出典]。元となった本は『日本霊異記』、『三宝絵』、『本朝法華験記』などが挙げられる[要出典]。また、平安時代の最初の仮名の物語といわれる『竹取物語』なども取り込まれている。

古今著聞集

鎌倉中期の説話集。二〇巻。橘成季(たちばなのなりすえ)著。建長六年(一二五四)成立。前代の日記、記録、説話集などを基礎資料に、平安中期から鎌倉初期の日本の説話七百余編を、神祇、政道、文学など三〇部に分類し、年代順に収めたもの。尚古的なものと、当代卑近な説話とが混在する。漢文の序と和文の跋文を持ち、説話集として最も組織的な作品で、量的には現存説話集中「今昔物語集」に次いで大きい。

元亨釈書

鎌倉末期に成立した日本仏教史書。虎関師錬(こかんしれん)著。30巻。総合的僧伝としては日本最初のもので、紀伝体の歴史書としても最初のものである。内容は、伝(僧伝)、表(資治表=年表)、志(仏教文化誌)の3部分からなり、巻19までの僧伝は、中国の高僧伝に倣って10科に分類する。1307年(徳治2)一山一寧(いっさんいちねい)に日本仏教についての無知を指摘されて発憤し、22年(元亨2)に完成した。虎関の寂後、入蔵(にゅうぞう)(大蔵経編入)が勅許され、64年(正平19・貞治3)より14年を費やし刊行された。注釈書に『和解(わげ)』『便蒙(べんもう)』『微考』などがある。


四つの古典書に書かれた猿の変死状況を抜き出しました

大日本国法華経験記

山林を巡り見るに、二の猿、傍(かたはら)に数本の薯蕷(やまのいも)を置き、土の穴に頭入りて、二の猿死に了へぬ。 

今昔物語集

山林ヲ廻(めぐり)テ見(みる)ニ、此ノ二(ふたり)ノ猿林ノ中ニ暑預(やまのいも)ヲ多ク堀リ置テ、土ノ穴ニ頭(かしら)ヲ指入(さしいれ)テ、二(ふた)ツ乍(なが)ラ同ジ様ニ死(しに)テ臥(ふ)セリ。

古今著聞集

山をめぐりて求(もとむ)るに,ある山の奥に,かたはらにやまのいもを置(おき)て,かしらを穴の中にいれて,さかさまにして二の猿死(しに)てあり。山のいもをふかく堀入(ほりいれて)て,穴におちいりて,えあがらずして死(しに)たるなめり。

元亨釈書

乃出寺巡見山林。去寺一里。深谷之間。二猿傍置山藥數枚入頭於穴中而死。


猿の死因現場検証

"越後の猿のお話"  が、四つの古典書に掲載されているということは先に述べました。

実は ”越後の猿のお話” は、もうひとつ別の場所に有るのです。

それは、ここ猿供養寺集落に伝わる ”越後の猿のお話” の言い伝えです。

しかし、ここの猿供養寺集落の言い伝えの大筋と、四つの古典書の大筋は、決定的に大きな相違点が有るのです。

四つの古典書の大筋は、いずれも、”サルがお寺のお坊様の所に来て、秋になって山で死んで、それから四十年後に人に生まれ変わった官吏が越後に来て、このお坊様を探し出し、写経を完成する” というものです。

対して、”猿供養寺集落に伝わる言い伝え” は、四つの古典書前半部分にある ”サルが山で死んだ” までなのです。

四十年後に発生する古典書の後半部分のお話は、猿供養寺集落には影も形も伝わっていないのです。

つまり、越後の猿の話が四つの古典書に書かれていること自体、猿供養寺集落の村人達は今まで全く知らなかったということです。

県内には、三島郡(出雲崎町と旧三島町の2か所)と胎内市乙地区にも、このサルのお話が伝わっています。

そして、この3地域に伝わるお話の大筋は、ほぼ、四つの古典書の筋書きに一致しています。

ということから、即ち、”猿供養寺集落に伝わるサルの言い伝え” だけが、他から独立して存在しているのです。

この意味は、”サルはここ猿供養寺集落の裏山で死んだ” という証拠を示しているのです。

 

 

それでは、古典書に有る "ふたりのサルが山の中で死んだ"  という前半部分の事件(?)  について、詳しく出来る限り分かりやすく説明します。

 

死体発見者は、越後国東山寺の乙宝寺の住職であるお坊様です。

発見時のお坊様の年齢は、”40年後に80歳を過ぎて” と大日本国法華経験記に書かれていますから、40歳から50歳位と想定できます。

お坊様の性別は男性でしょう。

 

何時頃の事件かというと、『昔々、乙宝寺が越後のこの東山寺地区に建立され、お坊様が都から派遣され、ふたりのサルが乙宝寺のお坊様の所にお経を聴きに行くようになり、その年の秋、ふたりのサルが突然来なくなったのでお坊様が、近くの山の中を探したところ、山中でふたりのサルの遺体を発見した時』です。

乙宝寺は乙寺であり、兄寺の華園寺は『華園寺縁起書』によれば、『西暦736年に建立』と有りますので、西暦736年以降のそう遠くない年の秋、と見込んでいます。

何しろ、今から1300年もの前のことなので、正確には分かりません。

従って、西暦736年以降としておきましょう。

 

サルの死亡推定時刻については、残念ながら不明です。

お坊様が死んでいるサルの遺体を発見したとなっています。

現代であれば、科捜研の沢口靖子さんが検視し大体は判明するのですが・・・(笑)。

 

しかし、そんな1300年もの大昔の事件でありながら、発見時の遺体の状況はかなり明らかになっています。

何故かというと、山の中で遺体を発見した乙宝寺のお坊様が、都に書面でこの事件の報告をしているからです。

つまり、京の都にこの事件の報告がなされ、都のどこかに報告書がしっかりと保管されたからこそ、後々に都で編集された四つの古典書に記載されたのです。

そして不思議なことに、四つの古典書の内容は細部に於いて少しづつ違っているが、遺体の状況だけはほぼ同じなのです。

 

一方、”猿供養寺集落に伝わるふたりのサルの言い伝え” には、遺体の状況までは伝わっていません。

800年以上の間、村人間に口伝として伝えられてきましたので無理もありません。

 

四つの古典書には、いずれも、事件発生から40年後のことも記述されていますから、報告の時期は、山中でサルの遺体を発見した頃に都に報告されたのではなく、40年後、三島郡(みしまのこおり)に乙宝寺が移転した後に都への報告が行われたのだと断定できます。

報告者は、当のお坊様か、あるいは、お坊様からお話を聞いた弟子なのではないかと推測しています。

 

いずれにしても、越後の国で起きた、サルの変死事件が、40年後に京の都に報告されその資料が都のどこかに保管されました。

そして、その後に、その事件の報告内容は、四つの有名な古典書にまとめられました。

四つの古典書は、大筋ではほぼ一致していますが、何しろ編集年代が数百年の差があり、細部では多くの相違が有ります。

しかし、不思議なことに ”遺体の状況” については、前にも書きましたがいずれの古典書も同じ内容なのです。

そして、驚くことに、”サルの死んだ状況” がまさに ”変死体” であるというのが共通内容なのです。

四つの古典書のそれぞれの ”サルの死んだ状況” については、上記に分かりやすく記載しておきましたのでご確認ください。

 

それでは、改めて、四つの古典書を読み返してみます。

 

遺体の数はふたつです。

”二猿” 或いは ”双猿” と漢字が充てられています。

岩波新書発行の古典書の解説書には、この漢字にふりかながふって有り ”ふたりのさる” となっています。

猿が獣の猿なのか、それとも、猿という名の人なのか不明ですが、明治時代から昭和にかけての著名な研究者たちは ”ふたりのさる” 即ち ”猿は人の名前” としたのでしょう。

サルの性別は明らかになっていません。

発見現場は乙宝寺からそう遠くない山林の中です。

遺留品として、死体のそばに、数本の山芋が有りました。

 

次に、遺体の状況を説明しますが、この遺体の状況が正に ”異様” そのものなのです。

四つの古典書は、ざっくりいうと、次のような表現をしています。

「土の中に頭を差し入れて」「さかさまになって」「ふたつとも同じ様で」

四つの古典書がいずれも共通してこのような表現でぴったり一致しているのです。

皆さん、このサルの遺体の様子、頭の中で想像出来るでしょうか。

 

「土の中に頭を差し入れて」「さかさまになって」「ふたつとも同じ様で」

 

なんで土の中で死んじゃったの?

頭を差し入れてってどういうこと?

さかさまになってって、どういう意味?

それも、ふたつとも同じ姿格好で死んでるだなんて?

 

常識的に普通に推理したとしても、全く想像すらできませんよね。

でも、一つだけ重要なヒントが有りました。

 

”傍に山芋が数本あった” とあります。

 

”秋になり、お寺への供え物が少なくなって山には山芋しかなくなった” と古典書に書いてあり、お寺へのお供えにするために山芋を掘っていたと想定できます。

 

次に、ふたりのサルは誰かから殺されたのか、つまり他殺なのか、又は、不慮の事故死か、或いは自殺死なのか? について議論します。

山芋が置いてあることから自殺説は除外してよさそうです。

他殺、いわゆる ”誰かに殺された” となると、凶器が必要です、それに、外傷の有無も・・・・・。

そばに転がっていた山芋が凶器になりえるのだろうか?

何よりも外傷の記述は古典書には一切ありません。

”ふたりのさる” を殺すような動機のある人物などいません。

”ふたりのさる” はお寺にお経を聞きに行き、お坊様にお経を写してもらい、そのお礼としてお供え物を差し入れ、善人そのものです。

従って、他殺説も否定してよさそうです。

 

となると、残るのは事故死か。

 

猿供養寺集落に伝わる言い伝えでは、”お坊様はサルの遺体を山の中で発見し、その後サルの供養の為に猿供養寺という名のお寺を猿供養寺集落の地内に建てました” と有り、常識的には不慮の事故に遭遇したとするのが最も自然な解釈であろうと考えました。

となると「山芋を掘っていて、何らかの事故に遭遇した」ということになります。

事故死した様子に再び戻りましょう。

 

「土の中に頭を差し入れて」「さかさまになって」「ふたつとも同じ様で」「山芋が数本おいてあった」

 

考えても考えてもさっぱり分かりません。

そこで、インターネットで、山での山芋堀の画像を検索してみました。

一つだけ、ハッとするような異様な画像が発見できました。

 

それが右下の画像です。

 

 

この画像では、人間が、土の中に何故か頭を差し入れています。

そして、さかさまになっています。

脇に山芋が置いてあります。

画像の説明書きが有りました。

山芋を今まさに掘り出そうとしてるところの画像だそうです。

画像の主は、例の古典書なぞ、知らないと思われます。

純粋に、山芋掘の画像を投稿していると思われます。

この画像ではひとりですが、古典書のようにふたりで頭を土の穴に突っ込んで、山芋を掘りだそうとして ・・・、と考えてみました。

可能性としては、大有りですね。

 

そして、この瞬間に、穴が偶然崩落した。

地すべりが発生したのです。

 

これで、漸く謎が解けた・・・一件落着・・・・・・。

 

でもねー、そんな偶然って有りなの?

普通は無いですよね。

そうなんですよ。

こんな偶然なんて、日本国中探しても絶対に有りませんね。

でも、ここ、丈ヶ山のここだけは、頻繁に発生しうるのです。

何故かというと、この場所は、日本でも有名な地すべり頻発地帯なのです。

”猿供養寺地すべり”で検索すると、学術的な地すべりの資料が手に入りますよ。

猿供養寺集落には、『地すべり』が体験学習できる ”地すべり資料館” が有ります。

昔々、頻発する地すべりに困って、旅のお坊様を人柱にしたという ”人柱伝説” も伝わっています。

この旅のお坊様をお祭してある ”人柱供養堂” も一見の価値ありです。

”人柱供養堂” には、お坊様の本物の人骨が展示してあります。

 

地すべり地帯で絶対にやってはいけない行為は

『地面の穴を掘ったままにすること』だそうです。

雨水が穴から地中に浸透し、地すべりの発生原因になるからです。

特に雨の多い時期は要注意です。

山芋の収穫期である秋雨の季節は特に危ないです。

ふたりのお猿さん。

秋になって長雨の季節、お寺に持っていくお供え物が少なくなったため、ふたりのサルさんは、山中であっちこっち山芋を掘りあさったのでしょう。

これじゃ、山芋掘りの最中に、偶然、地すべりが起きても不思議ではありませんね。

 

ふたりのサルの死亡原因がはっきりと特定できました。

それは、偶然の事故でした。

しかも、地すべりの原因を作ったのは、なんと、ふたりのサルでした。

ふたりのサルは、自殺行為に等しいことをやっちゃったのです。

でも、穴をあっちこっちで掘り、そのままにしたら地すべりが起きることは、全く知らなかったと思います。

ふたりのサルは、太くて長い山芋を見つけました。

その山芋を、掘り上げるために、二人一緒に・・・・・・・・・・・・。

 

「土の中に頭を差し入れて」「さかさまになって」「ふたつとも同じ様で」

 

その瞬間、地面が動いたのです。

上半身穴の中に入っていたふたりのサルは身動きが出来ません。

足をバタバタと動かしますが、どうすることもできません。

そのうち呼吸も困難になってきました。

助けを呼ぼうにも声が出ません。

数日後に、お坊様がふたりのサルの遺体を見つけてくれました。

 

ふたりのサルの死様を見たお坊様と集落の人々は、このふたりのサルを供養するため、小さなお寺を建てましたとさ。

 

 

                            終わり