山寺薬師駐車場を出て、左の山の方角を見ましょう。
道路の向うに、真っ直ぐ天に向かうように伸びる狭い石の階段が見えるでしょう。
この階段を昇ると、そこが ”山寺薬師様” です。
でも、階段は余りにも急勾配で、しかも、相当古く、見るからに危険そのもの。
「もしも、途中から転げ落ちたら・・・」と思うと、昇るには勇気が要りますネ。
私はカラッキシ意気地がないので、まだこの石の階段を一度も利用したことが有りません。
そこで、石の階段は回避して、右方向の道路に沿って、進みましょう。
100メートルほど進むと、乗用車が数台留まっているのが見えます。
大抵の日は、車が留まっています。
”延命清水” の水を汲みに来た方々の車です。
白いポリタンク10個以上持って順番を待っているご夫婦がいました。
「どこから、お出でになったのですか?」
「長野市です」
「長野では、ここは有名なんですか?」
「珈琲にはここの水は最適なんですよ。お客さんに評判がいいんです」
コーヒーショップのご主人様と奥様でした。
「それに、いつまでも腐らないんですよ。1か月に一度は必ず来ています」
「この延命清水の水を飲むと、死ぬまで長生きができます」 と、誰かさんから聞きました。
”長寿の水” だそうです。
でも本当のお話は少し違います。
地元集落のお年寄りから聞きました。
「昔々、病気で死にそうな人がいました。その人に、この湧水を飲ませました。その今にも死にそうな人は、この水を飲んだら 何日も何日も生き延びることが出来ました」
”延命” とは、成程、このような意味だったのですネ。納得。納得。
今迄、何人かにお声をかけました。
もちろん地元の方が多いのですが、遠く飯山市や長野市当たりの人も結構来ています。
備え付きの柄杓で喉を潤し、ペットボトルのお茶を延命清水に入れ換え、さあ、山寺薬師に向かいましょう。
延命清水左側に、山寺薬師裏参道が有ります。
途中右手の巨大な貫入岩石を見ながら・・・。
右の巨大な一枚岩に、直接手で触れてみましょう。
どっしりとして、ひんやりとして、とても良い感触でしょ。
関川より北側の頚城側では、火山岩系の岩は、ここだけなんです。
この大岩の下はどのようになっているのか想像してみましょう。
地下の深い深いところからこの大岩が地表に上がって来たのですよ。
風が全く無い日に、ここに佇むと、あたり一面に硫黄の匂いが漂うことが有るそうですよ。
意外と楽々、山寺薬師様に着いちゃいました。
あの恐怖の石階段を利用しなくって、良かったでしょう。
さあ、お薬師様を有りがたく拝顔致しましょう。
本坪鈴をガラガラと鳴らし、扉を開け、薬師堂の中に入ると、木彫りの三体の巨大な如来様が目に飛び込んで来ます。
真ん中におられるのが薬師如来様です。
右脇が釈迦如来様、そうです、お釈迦様です。
左脇が阿弥陀如来様。
三体の如来様を見て「アレッ、何か変じゃなあい?」と直感された方、「貴方は古き良き日本人の心をお持ちです。素晴らしい方です」
そうなんですよ。
お釈迦様は、真ん中におられるのが一般的なんです。
何故って?
如来様の中では、お釈迦様が、一番偉いのですから。
地元では「山寺薬師三尊像は、もとは、五尊像だった」と言い伝えられています。
昔々、お釈迦様の右に2体の如来様が有ったというのです。
お釈迦様が一番偉いので、真ん中に居られた筈だというのです。
<山寺薬師三尊像>
本尊である薬師三尊像(右脇侍:釈迦如来・中尊:薬師如来・左脇侍:阿弥陀如来)は親鸞聖人の妻となった恵信尼公の父、三善為教の子孫とされる三善讃阿が応永2年(1395)に寄進したもので、墨書銘から仏師が京都六条の筑後法眼であることから京都で制作されこの地で組み立てられたと考えられています。薬師三尊像(薬師如来像像高4尺9寸9分、脇侍像高4尺7寸5分余、三像共に、寄木造、檜材、素木仕上げ、玉眼、京都六条出身の仏師筑後法眼作)は、昭和53年(1978)に新潟県指定重要文化財に指定されています。
※上記、説明文についてファンクラブでは更に詳細な検討をしています。
三体の如来様の制作場所は三体とも京都なのか?
最初に制作されたのは、釈迦如来で1394年、薬師如来は1395年、阿弥陀如来は墨書きが無く不明?
釈迦如来には、寄進者の三善讃阿の名前が無い?
釈迦如来の制作者は京都六条仏師筑後法眼、薬師如来は大仏師筑後法眼?
詳しくは、”山寺薬師三尊像の謎” を読んでね!
<ちょっと耳寄りなお話>
向かって右側におられる、お釈迦様の左耳のお話です。
今から、五、六百年前、この地で激しい戦(いくさ)が有りました。
このお堂の中でも、両軍入り乱れて、激しい殺し合いが行われました。
その戦で、お釈迦様の左の耳たぶが損傷しました。
その時受けた、刀傷が、はっきりと見えますよ。
さぞ、痛かったことでしょう。 合掌。
このような山の中で、素晴らしい仏像様に会えるなんて、思いもよらなかったでしょう。
お堂の中の左の窓際に並べて有る素朴なお地蔵様は、生まれた子供達が健やかに育つようにと信仰に厚い村人達が寄進したと伝わっています。
「お地蔵様と言えば、階段の近くに、七体のお地蔵様が並んでましたよね」
一緒に市民登山に参加された初老の男性から声をかけられました。
「申し訳ありません。あの地蔵様については、私は何も知らないのでご説明できないのですが・・・」
「いやいや、説明していただかなくていいのです。六地蔵というのは普通どこにも有るのですが、ここのは七体なんですよね。うーん。これは珍しい」
「六体の地蔵様というのはどこにも有るのですか? ここの七体の地蔵様は珍しいんですか? お地蔵様に凄くお詳しいんですね」
どこにでも博学の方はおいでになるものです。
「その六地蔵ってそもそも何なのですか?」
自分の無知をさらけ出して聞いてみました。
「それはね、仏教の六道の思想に基づいて地蔵菩薩の像を六体並べて祀ったものですよ」
又、分からない言葉が出てきました。
「その六道の思想って・・・?」
何やら難しい話になってきました。
この博学の御老人、偉いお坊様に見えてきました。
「我々が生きている世界は六つあるということです。ちょっと考えてみてごらん」
(案内人ならそれくらい知っていなくちゃ、駄目でしょ)と言わんばかり。
「えーと・・・、突然考えろって言われたってねー。うーん。まず、自分たちが今いる世界。つまり現世でしょう。それから、閻魔大王様がいる死後の世界だ。死後の世界は、極楽の世界と地獄の世界に分かれます。これで三つか。それから・・・生まれる前の世界かな?。昔々、乙宝寺のお坊様の所にふたりのサルが写経を願いに来た理由は、「人間界に生まれ変わるため」だったというから、猿や猪等の住む獣の世界。牛や馬、犬もいる。アッ、畜生という言葉があるから畜生の世界だ。それと、桃太郎が退治したという鬼の住む世界。これで五つだよね。あと一つは・・・・・・。分かった。お釈迦様が住んでいるという天竺の世界。どうですか?」
「天竺はね、我々生き物は絶対に行けないよ。だからアウト。で、もう一つの世界は何?」
「そうか、天竺へは、人間は行けないのか。確かに極楽浄土までなんだよね・・・。となると、六つ目の世界は・・・。虫の世界かな。ゲジゲジやゴキブリやムカデ、ミミズの世界。バクテリアやウイルスも入るのかな。この世界には悲しみも喜びも痛みもない。笑いもないし怒りもない。無常の世界だ。如何ですか?」
「まー何となく合格点かな。正確に言うとね・・・。 天道、人間道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの世界です」
「なるほど、でも、ここにあるお地蔵様は七体ですよね。これってどう考えたらよいのですか?」
「うんうん。7体のお地蔵様を見てごらんよ。真ん中のお地蔵様だけ少し違うだろ。六地蔵プラス一地蔵だと私は思うが・・・。日本の国内には七地蔵というのが無いわけじゃない。その場合、普通は、阿弥陀如来が真ん中におられる。でもここは、薬師様だから、もしかしたら真ん中のお地蔵様は薬師如来様かも・・・ね」
お地蔵様って奥深いよね。
お地蔵様は閻魔様の化身だとも言うし。
さあ、次に急ぎましょう。
七地蔵様でだいぶん時間を使っちゃいましたね。
さあ、登山口に急ぎましょう。
でも、ちょっと寄り道していきませんか?
100人中99人は折角の三猿をスルーしちゃいます。
ユーモラスな三猿、そう ”見ざる 聞かざる 言わざる” のあの三猿があなたの来訪を待っています。
三猿は、薬師堂の裏の山道を登りきったところにいますよ。
丈ヶ山登山の予行演習だと思って見に行きましょう。
三猿にお会いできましたか?
よもやこんなところに三猿がいるなんて、知らなかったでしょう。
でも、ご神体は祠の中におられます。
昔々、猿俣川のほとりで猿そっくりの石が発見されました。
その石が、ご神体となって、祀られているのです。
<山寺五山>
昔々、たけのやまの麓が『山寺三千坊』と呼ばれた頃のお話です。
村の人達によると、山寺三千坊には、五つのお寺が有ったと言い伝えられています。
五つのお寺とは、華園寺、乙宝寺、猿供養寺、佛照寺、天福寺です。
このお寺の順番は、村人の誰に聞いても変わりません。
それどころか、建っていたとされる場所も言い伝えとして分かっています。
この順番って何?って聞くと・・・
「お寺が建てられた順番さ」という返答が返ってきます。
成程、華園寺は管長寺と言われていますし、乙宝寺は乙寺と言わています。
乙宝寺に猿が来て、山で亡くなり、供養のため建てられたのが猿供養寺です。
何の違和感も有りませんね。
只、佛照寺、天福寺については殆ど言い伝えが有りません。
現在は、”猿供養寺” も、”華園寺” も、”乙宝寺” も、”佛照寺” も、”天福寺” もここ山寺地区には有りません。
そして、”猿供養寺” という名前だけは、集落の地名として今も残っています。
※”寺野郷土誌稿”を読んでみた結果、この順番については全く異なることが書いてあるのを発見しました。
実は ”寺野郷土誌稿” には、『猿は、乙宝寺に来たのではなかった』のです。
興味のある方、”寺野郷土誌稿を読む” を読んでみて下さい。
少し一休みしてから、丈ヶ山登山口に向け出発しましょう。
墓地を通り抜け、幅一間程の歩道を進みましょう。
道は少し下っています。
5分も歩けば、丈ヶ山登山口に到着です。
登山を開始する前に、もう一か所、ご案内します。
登山口を通り越して、30メートルほど歩きましょう。
布団篭の擁壁が途切れたところが、猿供養寺跡です。
ここが、昔々 ”猿供養寺” というお寺のあった場所です。
この ”猿供養寺” という名のお寺は全国には一つもありません。
ここにしかない大変珍しいお寺の名前です。
そりゃそうですよね。
猿を供養したというお寺ですもの。
猿供養寺集落には、昔々から伝わる不思議な ”ふたりのサル” の言い伝えが有ります。
この ”ふたりのサル”の言い伝えですが、なんと平安時代に編集された書物に書き記されています。
その後、今昔物語など、三つの書物に再編集されました。
越後の山奥で起きた出来事が、あまりにも不思議だったのでしょうね。
<ふたりのサルの物語(猿供養寺集落に伝わるお話)>
昔々、観世音菩薩堂と法定寺と法浄寺のお堂が有りました。
その観音堂の聖僧の所に牡牝の猿が毎日参拝に来てお経を聞きました。
時には、木の皮を持ってきて僧から経文を写してもらいました。
謝礼として山の芋を捧げました。
このことを僧は不審に思っていたところ、猿は参拝に来なくなったので、猿の行方を捜したところ、山寺地内の奥に、岩石の下で山芋を掘っていて突然岩石が落ちてきて下敷きとなった憐れな死に方をした猿を発見しました。
僧は、二匹のサルの死体を川の両岸に分葬しました。
この由来で川の名を猿俣川と称しています。
尚、この猿を供養した縁で、この場所に大寺を建て名称を猿供養寺としたと言われています。
<越後の猿>
この "越後の猿" のお話は、平安中期,1040年頃、比叡山の 首楞巌院(しゅりょうごんいん)の僧、鎮源によって書かれた法華経の効験説話(験記)集 「大日本法華経験記」「第126 越後国乙寺の猿」に載っています。
「大日本法華経験記」のストーリーは
1 乙寺のお坊さんの所に猿が経を聞きに来て、山で変死する。
2 40年後に、都から国司が来て、このお坊様を探すが、乙寺は無く、お坊様を訪ねて三島に移転した乙寺に行き、そこでお坊様に会う。
という2段階の構成になっています。
乙寺は、板倉⇒出雲崎⇒三島⇒中条と移転するのですが、板倉の猿供養寺に伝わる言い伝えは、当然ですが前半のストーリーのみです。
乙寺(乙宝寺)の移転
東山寺地区には、奈良時代に山寺三千坊として五つのお寺が有ったと伝わっています。
最初に建立されたのが甲寺華園寺、二番目が乙寺乙宝寺、この乙寺乙宝寺に猿がやって来て秋に山の中で亡くなり、この猿の供養のために建てられたお寺が三番目の猿供養寺です。
その後、四つ目、五つ目のお寺が建ちますが、今は、これらのお寺はここ山寺地区には一つも有りません。
華園寺というお寺は上越市高田寺町に有ります。
この華園寺の縁起書には、昔は東山寺に有って後に高田に移ったと記されています。
でも、乙宝寺は上越市内には有りません。
乙寺乙宝寺はどこに行ったのでしょうか?
新潟県内の、出雲崎町乙茂と三島町に乙宝寺の伝説が残っています。
出雲崎町も三島町も三島郡です。
「大日本法華経験記」の内容にも一致します。
しかし、今は、出雲崎町にも三島町にも乙宝寺は有りません。
乙宝寺は、もっと北の方角の胎内市乙に有りました。
この胎内市の乙宝寺は新潟県内では、大変有名なお寺です。
東山寺にかって有った乙宝寺は、出雲崎・三島町に移転し、その後、胎内市の乙に移転したのです。
”大地が動く” って、実感できますか?。
大地が動いている現場をお見せしましょう。
布団篭の擁壁を見てください。
猿供養寺跡の方は、設置した時の形を保っていますが、右端の登山口の方は道路側に大きくせり出しているでしょう。
これが大地が動いている証拠なのです。
実は、ここは『猿供養寺地すべり』として全国的にも超有名な巨大地すべり地帯なのです。
登山口に着きました。
さあ、頑張って登り始めましょう。
登り始めて5分もすると、左の木の下に「ふたりのサル終焉の地」の道標が見えます。
この場所で、”ふたりのサル” は山芋を掘っていて、地滑りに遭いお亡くなりになったのです。
・・・合掌・・・。
”ふたりのサル”って言葉、何となく違和感が有りませんか?
猿なら一匹、2匹、3匹と数えますよね。
人間なら、一人(ひとり)、二人(ふたり)、三人(さんにん)ですよね。
越後の猿のお話は、四つの有名な古典書
”大日本国法華経験記” ”今昔物語集” ”古今著聞集” ”元亨釈書” に載っています。
岩波書店刊行の四つの古典書の解説本には、”双猿” ”二猿” の読み方の
ルビが何と ”ふたりのさる” となっているのです。
私達地元民が、勝手に ”ふたりのサル” と呼んでいるのではないのです。
”ふたりのサル” だなんて、何と奥の深い不可思議な呼び方なんでしょうか。
ふたりのサルがここで亡くなったことについて、一緒に考えてみませんか?
1 "山芋を掘っていて" ってどういうことなの?
2 "地滑りに遭った" って本当なの?
3 "四つの古典書" に何が書いてあるの?
題して ”ふたりのサルの変死事件” の真相究明です。
丈ヶ山山頂に到着しました。
571.6mの低い山だなんて、馬鹿にしないでください。
ここからの眺望は、本当に素晴らしいのです。
今日は薄く靄がかかっていますが、左から
黒姫山(2053m)
高妻山と乙妻山(2352m 2318m)
妙高山(2446m)
火打山(2462m)
が良く見えます。
頚城平野の向うは・・・
残念ながら、日本海は今日はダメでした。
山頂のベンチに腰を掛け、寛ぎましょう。
延命清水でのどを潤し、リュックからおむすびを出しましょう。
心地良い疲労感と吹き出る汗が健康増進になるのです。
山頂に一本の桜の木が有ります。
桜の木の幹を観察してみましょう。
上から下へ続く一本の溝が見つかりますね。
何の跡かわかりますか?
そうです、雷が落ちた痕跡です。
こんな深手を負いながら、桜の木は今年も花を咲かせました。
令和元年に山頂に ”身の丈地蔵さん” が建立されました。
”身の丈地蔵さん” にお願い事をしても構いませんが、
くれぐれも『貴方の身の丈に合うお願い』をして下さいね。
では、そろっと下山しましょうか。
下山ルートは三つ有ります。
① 今登ってきた登山ルートを下りるルート。
② 裏側の、林道ルート
③ ”聖の窟” に向かう未整備大冒険ルート
今回は、安全な2番目のルートを通って下りましょう。
「寺野郷土誌稿」には、天平末年、裸形上人がこの地の岩窟に来て修業し、如意山乙宝寺と丈六山猿供養寺を開創したと書かれています。この岩窟が聖窟(ひじりのあな)即ちこの聖の窟(ひじりのいわや)であろうと思われます。またこれよりも古く行基に仕えた浄念という僧もここで修業したとも言われています。
当時は、人が何人も入れたと言われていますが、近年になって、岩が崩れたのか、入り口が狭くなってしまいました。