本書は法華経持経者らの伝記集。伝記の多くは法華経にまつわる霊験譚を含む。上、中、下3巻の計129の伝が、菩薩(聖徳太子と行基)、比丘(最澄、円仁をはじめとする僧)、在家沙弥(剃髪して沙弥戒を受けた在家者)、比丘尼(尼僧)、優婆塞(俗人の男性信者)、優婆夷(俗人の女性信者)、異類(蛇、猿など人間以外のもの)の順に並んでいる[2]。こうした構成は、先行する往生伝の『日本往生極楽記』とほぼ同じだが、異類の部が加わる点は本書の特色である。
越後国乙寺に持経者あり。心を摂(をさ)めて乱れず。身を調へて閑居せり。法華経を読誦して、更に余念なし。ここに二(ふたり)の猿来りて前の樹の上に住し、終日(ひねもす)に経を聞けり。朝(あした)に来りて暮(ゆうべに)去る。二、三月の間、毎日(ひごと)に闕かず、来りてこの経を聞けり。このことを怪(あやし)び思ひて、漸くに猿の辺に近づきて問ひて曰く、汝猿、何の故にぞ常に来る。もしは妙法華経を読誦せむと欲するかといふ。猿、沙門に向ひて、頭(かしら)を振りて受けず。もしは経を書写せむと欲するかといふ。猿、咲(ゑみ)を含みて喜び、合掌し頂礼せり。持経者告げて言はく、もし経を書写せむと 欲せば、我当に汝がために法華を書写すべしといふ。猿この語を聞き、眼(まなこ)より涙出でて、沙門を頂礼し、樹を下りて還り去りぬ。
それよりの後(巳ち)五、六日を逕て、数百の猿あり。悉くに皆物を負ひて来り、沙門の前に置けり。これを見るに紙の料なり。樸(こはだ)の木皮を剥(は)ぎ取りて各持ち来れり。沙門これを見て、希有の心を生(おこ)し、樸の皮をもて経の紙を作り畢へて、吉(よ)き日を選び定めて、この経を書写し始めたり。経を書ける日より、毎日に闕かず、二の猿各薯蕷(やまのいも)を持ちて来る。秋冬の時に望みて、栗・柿等の種々(くさくさ)の菓子(このみ)を採り持ちて供養す。第五の巻に至りて、一両日の間、二の猿来らず。沙門怪び念ひて、寺の近き辺(ほとり)に出でて、山林を巡り見るに、二の猿、傍(かたはら)に数本の薯蕷(やまのいも)を置き、土の穴に頭入りて、二の猿死に了へぬ。沙門見畢へて、涙を流して悲び歎き、その死屍(しのかばね)を収めて、読経念仏し、かの菩提を訪(とぶら)へり。沙門その瀰猿(さる)の法華経を書写し畢へざるをもて、仏の前の柱を刻(ゑ)りて、籠(こ)め置き奉り了へぬ。
その後巳に四十余年を経て、紀躬高朝臣その国の刺史と成りぬ。府に着きて巳後(のち)、神拝を勤めず、公(く)事(じ)を始めずして、最初(さいそ)に三島郡の乙寺に参り向へり。守住僧(ぢうそう)に問はく、もしこの伽藍に書き畢へざる妙法華経ありやといふ。諸僧驚きて求むれども、更におはしま御坐さず。件(くだむ)の持経者年八十を過ぎて、老耄(らうもう)して猶し存せり。長官に白(まう)して言はく、昔猿の書き始めし経おはしま御坐すと申す。長官大きに喜びて、老僧を礼(らい)して云はく、不審(いぶかし)。その経は何(いづれ)の所に御坐す。その願を果さむがために、この国の守(かみ)に任ぜり。我は昔猿の身なりき。持経者に依りて、経を聞きて発心し、聖人の勧に依りて、法華を書写しけり。聖人存生(ぞんしやう)の時、弟子この国に至る。これ小き縁にあらず。いまだむかし曾よりあらざることなり。ただ願はくは、聖人この経を書き畢へて、我が願を満たしめよといへり。老僧守(かみ)の語を聞きて、覚えず涙を流し、悲び歎くこと限りなし。 件の経を取り、一心に精進して、書写既に畢へぬ。長官また三千部の法華経を書写して、供養恭敬(くぎやう)せり。善根(ぜんこん)を勤修(ごむしゆ)すること、算数(さんす) すべからず。
沙門法華経の力(りき)に依りて、浄土に生るることを得たり。経を写せし二の猿は、一乗の力に因りて、生を転じて国の守と成り、道心を発して修善す。後生の妙果、宛(あたか)も掌(たなこころ)を 指すがごとし。