第1章 三千坊とは? 五山とは?
(1) ”三千坊” とは?
日本仏教の権威浅草寺勧学所長京戸慈光師は
・「三」は、人生・自然・社会などの法則のこと。
・「千」は、とてつもない広がりで多いこと。
(2) ”五山” とは?
五山のルーツ
・お釈迦様が説法をした五つの修業場
・お寺
日本では
・鎌倉時代、禅宗の五つの寺を鎌倉五山と言った。
(但し、その寺院名には諸説あり)
・室町時代、足利直義(ただよし)により
京都市内の京都五山(禅宗の寺)が確定される。
⑶ 丈ヶ山山麓に有ったという
”山寺五山” や ”山寺三千坊” とは?
山寺地区の五つのお寺のこと。
山寺地区やその周辺に多くのお寺群が集まった様。
三千の寺や僧坊が有ったという意味ではない。
第2章 山寺五山、山寺三千坊の普選的な理解と疑問
板倉郷土誌愛好会編纂
ゑしんの里板倉歴史散歩(改訂版)
東山寺にある山寺は、丈ヶ山(標高579.6m)の山中に、今から千三百年ほど前の養老2(718)年から天平末(759)にかけて、行基菩薩によって「長峯山(頂霊山)華園寺」「山寺山(如意山)乙宝寺」「丈六山(浄楽山)猿供養寺」「丈額山佛照寺」「福寺山天福寺」の五山が開かれたといわれていますが、開山に関しては諸説があり、定かでは有りません。しかし、古く山岳仏教の道場として隆盛を極め、近郷近在にも関連寺や末寺が建立され、「山寺五山」「山寺三千坊」と称されるように大本山であったと言い伝えられています。(原文のまま記載)
また、山寺が衰退した理由として
①1179年、加賀の国司藤原師高の軍勢の焼き討ち
②1201年、鎌倉幕府によって壊滅
の二説があるとされています。
現時点で、”山寺三千坊と山寺五山” に関する地元の理解はこれに尽きるのではないかと思われます。
従って、先ずは、この説明文から、詳細に調べてみることにします。
① 丈ヶ山の標高が579.1mとなっています。
正しくは571.6mの筈です。
この文章の記載してる『ゑしんの里板倉歴史散歩』は改訂版です。
元の初版を探し見てみました。
初版は571.6mとなっていました。
明らかな記載ミスと思われます。
② 山寺五山は西暦718~759年に行基菩薩によって開かれたと説明されています。
この『行基菩薩によって』という説明には凄い違和感を感じました。
そこで、再び、初版はどのような記載になっているのかを見てみました。
初版は、行基菩薩の後に『裸形上人ら』が追加されていました。
③ 山寺が衰退したとする理由が二通り述べられています。
ここで言う山寺は「山寺三千坊と山寺五山」です。
三千坊の衰退は理解できますが、山寺五山即ち五つのお寺が衰退したかどうかについては疑問が残ります。
衰退したとされる鎌倉時代に、五山がそのまま山寺に存在していたのかどうかです。
華園寺は、鎌倉時代に、山寺に有ったの?
乙宝寺は、胎内市乙に行って山寺には無かったのでは?
これらも詳しく検討を重ねる必要がありそうです。
山寺が焼き討ちに有ったのが事実だとしてもです。
これから検討を始めるに当たっての参考資料を紹介します。
①寺野郷土誌稿
②日吉神社御神明帳
③華園寺略縁起
③韮沢梧朗の「消えた遺跡」
④乙寶寺(胎内市乙宝寺の冊子)
第3章 ”山寺三千坊” や” 山寺五山” が、丈ヶ山周辺に出来た理由
”山寺三千坊” や ”山寺五山” が何故に寺野郷の丈ヶ山周辺に集まって来たのでしょうか?
「そんなの簡単だよ。お寺がいっぱい有ったからだよ」
「いやいや、何故、いっぱいお寺が有ったのよ?」
「その理由は、”寺野郷土誌稿” に書いて有るって、言わなかったっけ?」
「ああ、確かに、寺野郷土誌稿に書いて有る・・・ことは・・・間違いのない事実なんだけども・・・」
「何か問題でも・・・?」
と、いう訳で、本ホームページより ”寺野郷土誌稿を読む” を再掲します。
<寺野郷土誌稿を読むの再掲>
1.何故、どこにでも在りそうなたけのやま山麓に山寺三千坊ができたのだろうか?
最初に、誰もが抱く素朴な疑問です。
「それはね、お寺がいっぱい有ったからだよ」
「いやいや、そもそも、何で、多くのお寺が、たけのやまの麓に集まったのよ」
ファンクラブの会員でも、この単純素朴な疑問に明快に答えることのできる人はいませんでした。
ある会員は「ここが京の都の比叡山に似ていたからだよ」と言いました。
「それって本当なの。比叡山とこの場所の、何がどのように似ているの?」
「えーと・・・・・・、それは・・・・・・、よく分からないけど、小さい頃、爺様から聞いたことがある・・・・・・。お前の所はどうだ」
「うちも、婆様が ”比叡山に似ている” と、よく言っていたよな」
どうやら ”比叡山に似ている” と言うのが、この寺野地区に伝わる古くからの言い伝えであることだけは理解できました。
でも「どこが?」と尋ねても誰も答えられませんでした。
ところが、「寺野郷土誌稿」に最初の疑問文の答えが明確に書いてありました。
三六代孝徳天皇時代の白雉年間(650~654)に、阿果というお坊様が、加夫呂山の麓に精神的一大楽園を建設した。
今から、約1400年も前の出来事だそうです。
今まで聞いたこともない『加夫呂山』という山の名前が出て来ました。
『加夫呂』は『かぶろ』と読みます。
『加夫呂』をネットで調べると、何やら出雲国の熊野大社の神様に関係が有るようです。
皆さん『加夫呂技』で、ネット検索して確認してみて下さい。
『寺野郷土誌稿』を読み進んでいくと、『加夫呂山』は『たけのやま』のことでした。
精神的一大楽園とは、仏教をテーマにしたレジャーランドみたいなものでしょうか。
さて、最初の疑問の、何故、加夫呂山の麓にお寺が集まったのか? という理由ですが
(原文のまま)山水秀麗四面冷瓏一望田野青々緑をなす加夫呂山の麓に・・・・・・佛法興隆の管長地の開基たり。
「加夫呂山の麓は、山も水も素晴らしく綺麗であり、その山頂からは、東西南北が見渡せ、青々とした野や田が広がっている」つまり、この寺野郷にある「たけのやまの麓」が、他の地域と大きく異なっている場所であったという意味でしょう。
そして、『こ゚のたけのやまの麓が仏教を広めるための最初の地である』というのです。
又、『加夫呂山は、丈六山又は薬師が峰(嶽)とも称していた』と書いてあります。
しかし、『丈ヶ山』の名称はどこにも見えません。
尚、加夫呂(かぶろ)とは、神聖な、という意味です。
「ほらほら、ここにちゃんと書いて有るじゃなあい?」
「それはそうなんだけど・・・」
「加夫呂山の麓は、山も水も素晴らしく綺麗であり、その山頂からは、東西南北が見渡せ、青々とした野や田が広がっているからでしょ」
「確かに、寺野郷土誌稿にはそのように書いて有るのは・・・確かなんだけど・・・」
「何だか歯切れが悪いねえ。何か疑問でも有るの・・・?」
「ああ、阿果が越後に来たという650年頃って、この辺りの山の麓って、どこもかしこも緑が綺麗なんじゃないかって最近になって思っちゃったのよ」
「ああ、そうか。古代の山って、全てが人の手が入っていない原生林のままだものね。それに、丈ヶ山って僅か571.6mの低山だもの。丈ヶ山より高い見晴らしのいい山なんて、周囲にいっぱい有るしね」
「そう、そう。それで、『若しかしたら、何か重要な事、見落としているんじゃなかろうか?』と思って、改めて寺野郷土誌稿を読み直してみたんだよ」
「へー。読み直した結果どうなった?」
「うん。寺野郷土誌稿の中に古地図が有るのに気が付いた」
「古地図・・・って?」
「これだよ」
「日付は、寛治3年7月となっている・・・。所謂、寛治図というものだよ」
「寛治図って、偽物だって言われている地図でしょ」
「そうそう。でも、寺野校首席訓導の今井貞四郎氏は、こう述べているんだ」
尚帆越後邑誌に見得たる源頼綱の家臣三郎兵衛信度のものせし往昔越後之国図は仁皇第73代堀川天皇寛治3年に製作せられしものにして今より実に845年前のものなり。此の図に就きて見るも頚城平野保倉川荒川流域は入江の状態にありしを知るを得べし。
「今井貞四郎氏は例え寛治図は偽物であったとしても、頚城平野の保倉川荒川流域はその頃は入江の状態であったことは認めるべきだと主張しているんだよね」
「そうだとも。入江の状態を認めた上て、寺野郷の昔の歴史を知るべきなんだと主張しているんだよ」
「ねえねえ、関川じゃなくって、荒川って書いて有るよ。間違いなのかなあ?」
「関川は、別名荒川とも言ったようだね」
「成程。間違えではないんだね」
「それでね、この地図の関川の左の入り江のふたつを現在の地形図に当てはめてみると・・・ね。何と、大熊川と別所川の川筋に一致するんだよ」
「まあ、驚いた。寺野村を流れる大熊川が日本海の入り江になっていたんだー」
「うん、そうなると、入り江なんて全くない現在の地形になるのに、たったの900年しか経過していないことになる。そう考えると、阿果というお坊様が来た時は、この古地図より400年程昔だから、入り江の形はもっと長くて深くて大きかった可能性が・・・と想像力を思いっきり大きくしてみたら・・・。あることについて、大きな勘違いをしていることに気づいてしまったんだ」
「えっ、勘違い?・・・。それって、なあに?」
「それは、ふたつある。ひとつ目は、韮沢梧朗の『消えた遺跡』に『猿供養寺が海に沈んだ』と書いて有った謎が、入り江が有ることでスッキリと解けたこと。もうひとつは、船を使えば、都からたけのやまの麓経由で信州へ行くこの道が最も近くて簡単なルートで有ったということ。こんな単純明快な理由で、建御名方命もここを通ったし、阿果も行基菩薩も裸形上人もここを通ったんじゃないかってね」
第4章 韮沢梧朗の『消えた遺跡』
「この新聞記事を読んだ時、 ”猿供養寺が災害で海に沈んだ” なんて、そんなこと絶対有り得ないって、思ったんだけど、日本海の入り江の海岸線が猿供養寺集落の直ぐ近くに有れば、『もしかして、猿供養寺が海に沈んだのは、真実ではないのか・・・』ってね」
楽しいお喋りはこの位にしておきます。
私が、この長岡新聞の記事の切り抜きを入手した経緯を述べます。
地元に伝わる猿供養寺の物語については、都で編纂された四つの古典書があることは御存じのとおりです。
この四つの古典書の内、最も古い時代に編纂された、『大日本国法華経験記』の中にある、乙寺に関する説話では、『三島の郡にお坊様が移った』と書いて有ります。
そこで、”三島郡の乙寺” を、ネット検索して偶々ヒットしたのが、『大積に有る大日寺』なのです。
この顛末は、拙著「猿供養寺物語と人柱伝説」85ページに記載してあります。
その部分を下に示します。
そして後日、私が大積の大日寺を訪問した時、住職は不在だったのですが、本堂にこの長岡新聞の切り抜き記事のコピーが置かれており、住職の奥様からいただいたものです。
この時の様子についても、「猿供養寺物語と乙(宝)寺」25ページに記載しています。
しかし、『猿供養寺は災害で海に沈んだ』と書かれていることにより、『猿供養寺は直江津海岸に有って津波によって日本海に沈んだ』との解釈が巷に散見されたことから、私としては、この新聞記事の信憑性に強い疑問を抱いてしまい、記事の内容全てに興味を持たなくなってしまったのです。
さて、改めてこの韮沢梧朗の『消えた遺跡』を読み直すと、この記事がもしも真実を語っているとすれば、逆に、多くの貴重な情報が入手できます。
①三島の郡の乙宝寺は、胎内市の乙に有る『乙宝寺』の前身である。
②三島の郡の乙宝寺は、三島郡上条村にあった。
③三島郡上条村に有った乙宝寺は天平18年(747年)に建立された。
④頚城郡の猿供養寺は天平16年(745)に建立された。
⑤この猿供養寺は災害で海に沈んだが、仏舎利、経文、仏像は三島郡の乙に避難、移転した。(災害発生年は、三島の乙宝寺が建立された後。つまり、747年以降である)
この記事は、今迄の私の常識を根本から覆すような内容となっています。
それは、『三島郡の乙宝寺が建立される前に、既に山寺地区に猿供養寺があった』ということなのです。
又、『山寺の乙宝寺、胎内市の乙宝寺よりも、三島の乙宝寺の方が先に建てられた』というのです。
このことに対する検証は、第6章 ③猿供養寺で述べます。
第5章 丈ヶ山の麓を通る越後から信州への道
次に、ふたつ目の気付いたことについて述べてみます。
今までは、『丈ヶ山の麓を通る越後から信州への道は最も短く楽な峠越えルートであった』と思っていました。
このことについては、仮に入江が無くても、”最も短く楽な峠越えルートだった” と思っていました。
というのは、私は、”越後と信州間” という狭い範囲をイメージしていたのです。
しかし、古代の入り江が、寺野郷の猿供養寺集落の近くにまで入り込んでいたのだとすれば、『都から信州へ行くのに、最も短く楽なルートになる』ということとに気付いたのです。
何故、都から信州なのか?以下その理由を述べます。
お話が長くなります。
ご容赦ください。
原田常治著「古代日本正史」を根拠にしています。
①古代の日本人はどんな場所に集まったのか?
著者の原田氏はこう述べています。
「人間が生物である以上、土があって、太陽があって、水のあるところでなければ住むことはできなかった」
そして、
「川には堤防が無かったので、大きい川の流域には大洪水があると流されるので人間は住めなかった」
例えば、「関東平野の利根川沿いの平地部(※元の利根川は東京湾に注いでいた)は、人間の住める場所ではなかった」
次に、
「水の無いところには人間は住めなかった」
つまり、「古代の日本は、立井戸を掘ることを知らなかったために、水の湧き出ないところには人間は住めなかった」
以上の条件で、古代に人間が住める場所を探すとなれば、それは 『盆地だ』 だそうである。
『日本の中で、最も大きい盆地は、奈良県の大和盆地でここが古代では最大の人口を有していた。二番目は京都盆地で、次は、甲府盆地である。中ぐらいの盆地が多くあるのが、長野県で、長野市、上田市、佐久の盆地、松本の盆地、諏訪盆地で古代の人口は随分多かった。盆地が小さくても一番多く有るのが、兵庫県でありここも人口が多かった。兵庫県と同じように盆地が有るのが、九州、豊前・豊後であり ”豊の国” と言うほど豊かな国でありここも人口が多く集まった。そして、古代では、最も人口の集まった奈良の ”大和” を制する者が、日本を制するという状態にあった』
出雲の国で大国主命の後継者争いが発生した時、”豊の国” 出身の大日霊子(天照大神)が勝利し、出雲国出身の建御名方命が敗れた。
勝利した大日霊子(天照大神)は、当然、”大和” を制するため奈良盆地に向かう。
一方、負けた建御名方命は、近畿の各盆地に次いで人口の多かった長野信州盆地に向け敗走した。
建御名方命は、日本海沿岸を船で北上し、越後に到着すると入り江に入り込み、長野信州盆地に行くのに最も近いルート、丈ヶ山を通る峠越えを選択したのである。
しかしながら、原田氏が「古代日本正史」で唱える建御名方命の敗走ルートについては、更に北上し、『信濃川河口から信州を目指した』と記述されているが、彼は、「入り江が有った事実と、丈ヶ山に建御名方命の神話が有った事実を知らなかったから」である。
尚、建御名方命が丈ヶ山を通ったのは西暦250年頃である。
この頃は、越後国は日本の地の果てと考えられていたし、人口も極端に少なかった。
従って、この頃の越後における歴史の事象は殆ど無いに等しかった。
その根拠として、井上鋭夫著の「新潟県の歴史」の巻末に添付してある新潟県内の歴史年表を下に示します。
しかし、寺野郷の古代史については、かなり詳しく『寺野郷土誌稿』に ”古代史、神代の郷土” として纏められているのです。
これはもう、寺野郷が越後国でありながら、越後国とは全く別の世界のようです。
ところで、この ”古代史、神代の郷土” ですが、たけのやまに ”建御名方命” が現われるとあります。
”建御名方命” は、信州諏訪神社の御祭神です。
”建御名方命” は、大国主命の末子で相続争いに負け、出雲から信州に敗走しました。
そして、その通り道の途中にたけのやまが有るのです。
”寺野郷土誌稿” には、たけのやまの麓には夜星という強賊がいて、父親の大国主命の助けを得て、滅ぼしたと書いて有ります。
この、”建御名方命” が、”大国主命” に助けを求めるストーリーが、正に神話そのものなのです。
”建御名方命” が助けを求めると、突然たけのやまの頂上が光り輝き、大国主命が、”白丈神” として顕れるのです。
”丈ヶ山” の ”丈” は、この ”白丈神” から引用したと説明しています。
また、古代には ”白岳” 中世には、 ”白ヶ岳” とも言ったと有ります。
また、”丈ヶ山” は、”薬師が峯” とも、”加夫呂嶽” とも言ったと有ります。
”丈ヶ山” はこの時代から、宗教的な意味を強く持つ『神の山』と認識されていたのです。
第6章 山寺五山の寺
山寺の五つの寺に関して、出来る限り情報を集めてみます。
① 華園寺
華園寺略縁起には次のように記載されています。
<華園寺略縁起>
所在地 新潟県上越市寺町2丁目13番9号
名 称 真言宗豊山派頂霊山大甲院華園寺
山号 長嶺山 直江山とも言う。
聖武天皇神亀二乙丑年(西暦725年)
建立地 新潟県中頸城郡板倉町大字東山寺
開山師 行基菩薩
当寺は所謂、山寺三千坊の山寺五山(当時・山寺山乙宝寺・丈六山猿供養寺・丈額山仏性寺・福寺山天福寺)の随一として栄えた。
当寺と相前後して創建された、五智の国分寺、米山の薬師堂、妙高山の阿弥陀堂と共に、近くは地方の教導、遠くは蝦夷の教化に尽くした。
山寺五山の筆頭のお寺は、華園寺であることは間違いないと思われます。
院号は大甲院です。
”甲” は、甲乙丙の甲です。
更に、”大” が付いています。
山号には、”頂” という漢字が充てられています。
そして、華園寺略縁起には ”五山の随一” との説明も有ります。
このことから、華園寺は、山寺のお寺群の中に有って最も位の頂点に立つお寺なのでしょう。
しかし、一番最初に山寺に建立されたのかどうかについては、今一よく分かりません。
というのは、『寺野郷土誌稿』には、猿供養寺について、『観世音菩薩堂並に法定寺、法浄寺の二堂宇あり。この、観世音菩薩堂にサルが来た』となっており、『猿供養寺村の開発年代は人皇第三十六代孝徳天皇白雉年代なり』と書いて有ります。
白雉年代は650~655年ですから、華園寺よりも75~80年も前になります。
また、 ”華園寺略縁起” には、山寺に有った華園寺は、直江津砂山に移転したと有ります。
何故そうなったのか? については、ただ単に ”越後の国王、紀窮高の招請により” となってます。
移転年が何年なのか、何処にも書いて有りませんが、”越後の国王、紀窮高” と言う人物名が記載されていますので、これがヒントで判明しました。
”紀躬高” という名前が『寺野郷土誌稿』に載っていました。
五一代平城天皇(大同始年)紀躬高五位上
”窮” と ”躬” の漢字違いが有りますが同じ人でしょう。
説明文には、”司に任ぜられし者明らかなりし者” と書いて有りますので、次の司名 ”弘仁七年 大領盛香従五位下” の間ですので、西暦806年~815年です。
また、縁起に、”移転前に弘法大師から、歓喜天尊像を給う” とあり、”嵯峨天皇の弘仁年間” ですので、810年~824年となります。
これらから、華園寺の移転年度を推定すると、西暦810年~815年のいずれかの年となります。
華園寺を最初山寺に建立した理由は、『地方の教導』と『蝦夷の教化』となっています。
華園寺を直江津砂山に移転した理由は、”越後の国王、紀窮高の招請により” ですが、恐らく華園寺が入り江の奥の山寺地区に有るよりも、日本海寄りの海岸に有った方が『地方の教導』と『蝦夷の教化』には効率が良かったからでしょう。
②乙宝寺
”寺野郷土誌稿” では『天平末年裸形上人此地に至り岩窟にて修業。如意山乙宝寺、丈六山猿供養寺を開創する』と有ります。
天平末年は西暦749年です。
華園寺建立の24年後です。
そして、『更に、70余年を経て、越後国国司紀躬高仏縁を辿り当山に登り仏前に祈請堂を建立す』と有ります。
これを機に、『山寺八十一家続々と建立せられて乙宝寺支配所たり』と有ります。
また、『山寺三千坊の最盛期出現之より始る』と有ります。
このことにより、乙宝寺の建立は749年です。
猿供養寺の建立も同年749年です。
70余年の西暦819年頃に山寺三千坊は最盛期を迎えたと有ります。
華園寺の移転年度が、西暦810年~815年のいずれかの年だとすれば、既に華園寺は山寺になく直江津に移転しています。
従って、これまで乙寺だった乙宝寺は、『山寺三千坊の支配寺』となります。
これで、”華園寺略縁起” と ”寺野郷土誌稿” に記載された、華園寺と乙宝寺の建立年や移転年の経緯が一致しました。
次に、胎内市に有る ”乙宝寺” が発行しているパンフレットを見てみましょう。
736乙寺建立(1)<寺伝a>
745乙寺建立(2)<乙宝寺縁起絵巻>
749乙寺建立(3)<寺伝b>
何故か、建立年が三つも有ります。
何故、三つも有るのかについては、パンフレットには説明が有りません。
巻末の年表には、736年は、『行基、婆羅門開基』又は『開山』(縁起絵巻説明文)と有り、746年については、乙宝寺縁起絵巻の説明文には記載が有りませんでした。
開基、開山の意味は、漢字辞書で調べた限りでは、建立ではなさそうです。
749年乙寺建立は、山寺の乙宝寺建立年と一致しています。
ただ、2年前の747年に三島郡に乙宝自が建立されたとなっている(韮沢梧朗の『消えた遺跡』)の説明の不一致が何とも不思議です。
それと、パンフレットには、胎内市の乙宝寺が、上越の山寺から移転したという記述が一切有りません。
思い直して、”寺野郷土誌稿” を一字一句読み直したのですが、『乙宝寺が胎内市の乙、或いは、三島の乙へ移転した』という記述も見当たりません。
ただ、29ページに『五山の一乙宝寺は下越に走り(北蒲中条町)、一体は上野国観音寺(群馬県群馬町)に行く。』との記述が有るが、前段に『高倉天皇嘉応巳丑元年・・・』と有ることから、乙宝寺が移転したことではなさそうです。
この謎解きの解答は、当時、行基は越後国の3か所(出雲崎と三島町を2か所と数えれば4か所)に乙宝寺を建立したと考えるしかないでしょう。
これが、所謂、『乙宝寺、不移転説』です。
③猿供養寺
”寺野郷土誌稿” に依れば、猿供養寺の建立年は、乙宝寺と同年の西暦749年です。
”韮沢梧朗の『消えた遺跡』” に依れば、猿供養寺の建立年は、西暦745年です。
”日吉神社御神明帳” に依れば、白雉年中紀となっていますから、西暦650~655年です。
つまり、何れにしても、猿供養寺というお寺の名前の根拠となったニ猿は、乙宝寺にお経を聞きに来たのでは無かったのです。
では、猿は何処の寺に来たというのでしょうか?
その答えは、”寺野郷土誌稿” 明快に書いて有りました。
『猿は、観世音菩薩堂で読経していたお坊様の所に来た』のだそうです。
ところが、『猿供養寺村の開発年代は人皇第三十六代孝徳天皇白雉年代なり』と記載して有ります。
そうなると、西暦650~655年に猿供養寺村が出来たということになります。
更に、白雉時代には、既にお寺やお堂がいくつも有ったということになります。
ニ猿が山で死なないと、猿供養寺という村が出来る訳が有りませんよね。
阿果というお坊様が、寺野郷を訪れたのが人皇第三十六代孝徳天皇白雉年代ですので、猿が山で死んだという事件は、この時より前に発生した可能性が有ります。
となると、猿が山中で死んだ約100年後の749年に漸く裸形上人により猿供養寺というお寺が建立されたということになってしまいます。
なにか、不自然ですよね。
猿供養寺の建立よりも100年も前に、『猿供養寺という村の名前が有った』というのですから。
猿供養寺村には猿供養寺というお寺が100年間もの長い間無かったとでもいうのでしょうか?
韮沢梧朗の『消えた遺跡』に、”猿供養寺は海に沈んだ” と書いて有りました。
この沈んだ猿供養寺は、745年に建立して、同年海に沈むと記載されています。
裸形上人による猿供養寺の建立年は4年後の749年です。
猿供養寺が建立される前に何故か猿供養寺が海に沈んだんですよ。
私はこの謎解きの答えを、このように整理してみました。
白雉年間(650~655)にふたりのサル(当然人間です)がたけのやまの山中で不慮の事故で亡くなります。
ふたりのサルの縁者や村の人々は、このふたりのサルが亡くなって直ぐふたりのサルを慈しんで、村の中、恐らく当時入江となっていた海岸近くにお寺(お堂)を建てます。
このお堂のことを、村人達は猿供養寺と言っていました。
この猿供養寺は、老朽化のため何十年か毎に建て直しされます。
西暦745年、何回目かの猿供養寺の建て直しが行われました。
立て直しの場所は、元建っていた村の入り江の近くでしょう。
しかし完成した直後の747年頃、村に大地すべりが発生しました。
そして、地すべりにより、この猿供養寺は、海の中に沈んでしまったのです。
家も畑も流されたため、村人達は猿供養寺の再建どころでは有りません。
その時期に、裸形上人が村を訪れました。
この話を村人から聞いた裸形上人は、猿供養寺を村人に代わって山寺に建立することとなったのです。
さて、749年に建立された猿供養寺は何処の位置に建てられたのでしょうか?
”寺野郷土誌稿” に明快に書いて有りました。
世に猿供養寺と乙宝寺を同一視する者あるは誤れり。現在の薬師堂は往昔の乙宝寺跡にして浄楽山猿供養寺は之より一段高き日吉神社奥社の西方の地域に当たり、裸形上人の共に建立せしものなり。
日吉神社奥社は、可愛い三猿がおいでになるあの場所ですね。
確かに、奥社から西方には少し高く平らになっています。
従って、この説明文に充分、納得出来ます。
それに、あの場所であれば、山体が火成岩ですので、地すべりの発生の可能性はほぼゼロです。
東山寺地区内に猿供養寺が有ることに違和感を感じる人がいるかも知れません。
でも、裸形上人が「乙宝時はここ、猿供養寺はここ」と決定すれば村人からは反対出来なかったでしょう。
何故なら、今までの猿供養寺村に建つ猿供養寺は民寺(建設資金は住民負担)でした。
しかし、山寺に建つ新しい猿供養寺は官寺(国直轄の寺・住民負担なし)です。
この猿供養寺は、嘉応の乱で焼失してしまいます。
ところが、『川中島合戦の時代に、箕冠城主大熊朝李の子、朝秀が上杉と戦い、猿供養寺に入り自刃した』と ”寺野郷土誌稿” に書いて有りました。
つまり、猿供養寺は、村人の手によって、再建されていたのでした。
再建された場所は何処か ”寺野郷土誌稿” には記載されていませんが、猿供養寺集落内の何処かでしょう。
現在、ファンクラブが『猿供養寺跡』と標識を建てたあの場所辺りだろうと思っています。
④天福寺
山名は福寺山です。
”寺野郷土誌稿” に依れば、『山寺五山精舎の一にして薬師の峯の東にあり、天平9年春行基和尚当山に登り佛生寺に二像を安置す。その一僧を以て道徳上人創建にかかる寺院なり。後山寺八十一家管長乙宝寺と並称さる。其の終りは嘉応の戦乱なり。』
『天平9年春行基和尚当山に登り』の説明には、違和感が有ります。
『その一僧』とは誰なのでしょうか?
『佛生寺に二像を安置す』と有るので、安置した年代は、乙宝寺、猿供養寺と同じ時期だと思われます。
となると、『行基和尚』とは誰なのでしょうか?
”寺野郷土誌稿” には、華園寺創建は『行基菩薩』だと書かれています。
同じ人なのでしょうか?
『和尚と菩薩』では、大きく意味が違います。
私の、見解は『行基和尚』の名前が誤りだと思っています。
”寺野郷土誌稿” の27ページには、『福寺山天福寺(裸形の開基)』と記載されていました。
以上により、乙宝寺、猿供養寺と同じ時期に建立されたとします。
⑤佛照寺
山名は、丈額山です。
”寺野郷土誌稿” に依れば、『薬師が峯東南にあり、天平年中春日善正寺と同時の創建なり。平城天皇の御代山寺に配せられ八十一家管長如意山を援け山寺五山の一に数へられしも嘉応の乱に兵火にかかり灰□に帰す』
天平年に建立と有るので、乙宝寺、猿供養寺と同じ時期に建立された。
平城天皇は806~809年です。管長寺は如意山即ち乙宝寺ですので、華園寺は管長寺から降りています。
第7章 結論
①山寺五山は、五つのお寺が山寺に存在していた期間を限定して『山寺五山』というべきだが、華園寺が山寺から直江津に移転し、山寺は四山となっても、『山寺には昔々五つの大きなお寺が有った』と表現している。
②乙宝寺は胎内市の乙宝寺に移転していない。鎌倉幕府により山寺三千坊が消滅させられた時には、乙宝寺は山寺に存在していた。
③山寺三千坊が隆盛を極めたのは、華園寺が直江津に移転後、乙宝寺が支配寺となってからである。
④猿供養寺は、住民により、一番最初に建立された。しかし、猿一族の住居の有る近く、海岸に建てられた。
⑤745猿供養寺が再建されるが、747年~749、災害で海に沈む。
⑥裸形上人、山寺で修業。この年、乙宝寺、猿供養寺(再建)、天福寺、佛照寺が建立。五山が出揃う。
⑦華園寺が直江津に移転した年は、810~815間である。
⑧山寺三千坊、山寺四山は1201年に消滅するが、猿供養寺だけは、住民の手により猿供養寺村に建立される。
⑨この猿供養寺は川中島合戦の有った戦国時代には、猿供養寺村に有った。これ以降は不明である。
第7章 山寺五山、山寺三千坊の年表
250 建御名方命丈ヶ山に来る
?~650 1山寺村開発
2二猿が山で事故に遭い死亡
3猿供養寺建立(村内)
4猿供養寺村開発
650~655(白雉) 阿果丈ヶ山に精神的楽園を建設
725 行基菩薩、山寺に来る
725 華園寺建立
745 猿供養寺再建(村内)
747 三島郡上条村乙宝寺建立
747~? 猿供養寺海に沈む
747~749 裸形上人山寺に来る
749 乙宝寺、猿供養寺(山寺)、
天福寺、佛照寺建立
749 胎内市乙、乙宝寺建立
810~815 華園寺直江津に移転
820頃 山寺乙宝寺支配所となる
1179 山寺焼き討ち
1201 鎌倉幕府により壊滅される
? 猿供養寺再建(村内)
1395 薬師堂建立
1585 大熊朝秀猿供養寺に入り自刃
<原稿) 7分間
お早うございます。
たけのやまファンクラブの眞田ともうします。
今日は、板倉区寺野郷に昔有ったとされる、山寺三千坊と山寺五山にのお話です。
平成31年発行された『えしんの里板倉歴史散歩』によると、
『板倉区東山寺にある山寺は、今から千三百年ほど前の養老2年から天平末にかけて、行基菩薩等によって「けおんじ」「乙宝寺」「猿供養寺」「佛照寺」「天福寺」の五山が開かれ、山岳仏教の道場として隆盛を極め、近郷近在にも関連寺や末寺が建立され、「山寺五山」「山寺三千坊」と称されるようになりました』
と紹介されています。
さて、五山と言うのは、五つのお寺と言う意味です。
三千坊と言うのは、お寺やお坊様が三千居たということでは有りません。
凄く多いと言う意味です。
今日のお話の内容は、行基菩薩が山寺に来た時以前は、山寺はどのような状態だったのか?
また、鎌倉幕府によって山寺は壊滅したあと、どうなったのか?
このようなことを、お話したいと思います。
昭和10年に、当時の「山寺村」から、村の歴史を綴った、『寺野郷土誌稿』が発行されます。
私のお話は、この『寺野郷土誌稿』から引用しています。
650年~655年の白雉年代、『阿果』と言うお坊様がこの地を訪れ、ここを仏教の精神的楽園を造ると決めます。
それから、70年後、天平年間に行基菩薩が来て、最初の寺、華園寺を建立します。
そして、25年後、裸形上人が来て、4つのお寺を建立します。
ところが、『寺野郷土誌稿』によると、『猿供養寺集落は白雉年間に開発された』と書いて有ります。
山寺五山では3番目の猿供養寺が1番目の華園寺よりも70年以上も前に、集落として存在していたというのです。
その頃の山寺には、観世音菩薩堂、法定寺、法浄寺などが有りました。
2匹の猿が、毎日、観世音菩薩堂のお坊様の所に、お経を聞きに通い、秋になって、山で山芋掘りの最中に不慮の事故に遭遇し死んでしまいます。
村人たちは、この猿を偲んで、猿供養寺と言うお寺を集落内に建てます。
その集落の名前が『猿供養寺』です。(4分)
日吉神社の『御神明帳』にも、『白雉年間に猿供養寺を開基し』と有りますから、五山のお寺の中で猿供養寺がいちばん先に建立されたのは疑いのない事実でしょう。
でも、『山寺五山』の順番は猿供養寺は3番目です。
長岡新聞の、韮沢梧朗の『消えた遺跡』という記事に『745年、頚城で猿供養寺が建立されたが海に沈んだ』と書いて有りました。
裸形上人が来たのはこの数年後です。
裸形上人が猿供養寺を建立したのに、猿供養寺は数年前に海に沈んだというのです。
この海に沈んだ猿供養寺は、猿供養寺集落の中に建っていたのです。
その猿供養寺が海に沈んだのです。
数年後に、訪れた裸形上人は、今度は、山寺に猿供養寺を建てたのでした。
でも、『海に沈んだ』っておかしいと思いませんか?
『寺野郷土誌稿』によると、当時は、頚城平野は日本海の入り江の状態であったと説明されています。
大熊川が、入り江であったとすれば、猿供養寺が海に沈むとした長岡新聞の記事に真実味が出てきます。
恐らく大地すべりが発生したのでしょう。
村人たちの家や畑も被害が及びます。
村人達は猿供養寺の再建どころでは有りません。
数年後に訪れた裸形上人は、猿供養寺村の惨状を見聞きし、猿供養寺を始め四つのお寺を建立したのです。
建立した場所は、日吉神社奥社の北方だと書いて有ります。
さてこのように五山が出そろいますが、810年~815年頃、1番目の華園寺が直江津に移転し、五山は、四寺となり、乙宝寺が山寺の支配寺となった頃から、山寺は大いに栄え、繫栄し、人々はこの地を「山寺三千坊」と呼ぶようになりました。
しかし、1201年、山寺は鎌倉幕府と対立するようになり、四つのお寺は壊滅します。
でも、猿供養寺だけは、村人により猿供養寺集落の丈の山の中腹に再建されるのです。
戦国時代、川中島合戦の頃です。
『寺野郷土誌稿』に「箕冠城主、大熊朝秀が上杉軍から攻められ、猿供養寺に入って自刃した」と書いて有ります。
その後の猿供養寺がどうなったかは不明です。
今日のお話は、ここまでです。
来月は、たけのやまについてお話します。
たけのやまファンクラブの眞田がお伝えしました。
<原稿> 7分間
8月 日放送
お早うございます。
たけのやまファンクラブの ”眞田” と申します。
今日は、私達ファンクラブの名称にも使用している ”たけのやま” についてお話しします。
たけのやまは、上越市板倉区にあって、571.6㍍の低山であり、かつ、地下のマグマが地上付近に貫入してできた独立峰であるなど、周囲の山々とは異なる山です。
国土地理院の地形図には、大丈夫のじょうに、カタカナのヶ、そして山、で『たけがやま』或いは『じょうがさん』 と表記されています。
たけのやまは、寺野地区の人々が親しみを込めて言う呼び名です。
この、たけのやまですが、実は、山の名前が10以上もあるという大変珍しい山なのです。
例えば
たけがやま
かぶろやま
やくしがみね
ぶんろくさん
じょうろくさん
しろたけ
じょうがくさん
ひよしやま
どうりんざん
如何でしょうか?
多分、『たけのやま』は世界一多くの名前を持つ山と自慢しても差し支えないでしょう。
さて、今日はたけのやまに関して、私が出会った不思議な体験をお話しします。
もう20年程前になりますが、猿供養寺集落の長老の三浦伸作さんから『言い伝えですが、たけのやまは、京都の比叡山に似ているのです』とお聞きしました。
「比叡山とたけのやまの何処が似ているのですか?」と質問してみましたが、答えは「分からない」でした。
寺野郷生まれの会員にも聞いてみましたが、「比叡山に似ているところ」を説明できた人はひとりもいませんでした。
その時は、「まあ、お寺がいっぱい有ったってところは似ているんだろうなあ」位にしか思いませんでした。
それから数年後、何かの宴会の時だったと記憶していますが、板倉郷土誌 愛好会の宮腰英武会長から「たけのやまの頂上が突然光るんですよ。私は見たんです。他にも見た人は大勢いますよ」とおっしゃいました。
「山の頂上が光るって、そんなこと信じられない」と思いつつ、宮腰先生には「私も見てみたいです」と心にも無い相槌を打ってしまいました。
これからが信じられないような体験話になります。
2018年、10月27日、市民登山が無事終わり、私は、たけのやまの写真を撮るため、やすらぎ荘から上小沢に抜ける道路沿いを車で走っていました。
天候はどんよりとした曇り空。
時間は午後3時を少し過ぎた頃。
たけのやまが最も美しく見えるのはこの辺りだと見当をつけ、車を停め、カメラをセットしました。
その時です。
たけのやまの頂上が光り始めたのです。
宮腰先生が言ったとおりの現象が起きたのです。
厚い雲の合間から、太陽の光線がたけのやまの頂上を照らしたとは思いますが、最初は、頂上付近の広い範囲が明るくなり、次第に頂上の一点に光が集中していきました。
夢中でシャッターを切ったのは言うまでも有りません。
こんな偶然って、あるんですよねえ。
カメラを構えたら、たけのやまが光って見せてくれたのです。
この写真は、ホームページに載せてあります。
更に、驚くようなことが続きます。
テレビで「300名山一筆書き」という番組が放送されていました。
今回、登山家の田中陽希さんが登る山は京都比叡山です。
彼は、徒歩で300名山を登ります。
京都市内からどこかの川沿いを比叡山に向けて歩いていたのですが、後ろ姿からの比叡山の映像が、何と、私が撮影したたけのやまにそっくりだったのです。
「もしかして・・・」と思い、早速、パソコンで、京都市内からみた比叡山の画像を検索してみました。
たけのやまにそっくりな比叡山の画像はすぐ見つかりました。
これも、ホームページに載せてあります。
たけのやまの頂上が光るって、本当だったのです。
比叡山に似ているという地元の言い伝えも本当だったのです。
今日のお話は、ここまでです。
たけのやまファンクラブは、偶数月の第4土曜日、たけのやま市民登山を行っています。
毎回、30人程の参加人数で頂上を目指します。
ファンクラブ会員がご案内します。
ご夫婦、お友達、ご家族等でご参加ください。
たけのやまファンクラブの眞田がお伝えしました。